シュガーロード紀行 小倉#003 小倉駅周辺に残る門司往還の痕跡

常盤橋を渡って東側、京町の商店街の入り口には参勤交代往還路(門司往還)を示す標識がある。
門司往還は常盤橋から門司方面へと向かう約16kmほどのみじかい街道。

門司往還は真っ直ぐ小倉の市街中心部を横断している。
京町・魚町のアーケード街の一部は、大村や飯塚と同じく、街道だった道筋がそのまま商店街になっている。

商店街を抜けて小倉駅前の大通りへ。

商店街出口からの横断歩道は門司往還の道筋を示しているらしい。

この横断歩道を渡った先にはコレットという大きな商業施設があるが、この建物は門司往還の真上に建っていることになる。

コレットの東側の出口正面には参勤交代往還路について解説する看板も建てられている。

看板の向こう側に真っ直ぐ続いている通りがかつては門司往還だった道。

googleMAPで見るとわかりやすい。

図中赤の点線で示したのが門司往還、先ほどの駅前の横断歩道が図中Aの箇所、Bが参勤交代往還路の看板。コレットの建物内の通路も旧街道の道筋とぴったり重なり合う直線になっているのが面白い。

シュガーロード紀行 小倉#002 常盤橋周辺の旧街道

常盤橋は長崎街道だけでなく、唐津街道・秋月街道・中津街道・門司往還の起終点でもあり、言ってみれば江戸時代における九州の交通の頸動脈のような場所だった。


地図で見るとこんな感じ。
江戸でいうところの日本橋みたいな感じだろうか。

常盤橋周辺の旧長崎街道には、こんな標識が埋め込まれている。
あと戻りするかたちになるが、常盤橋の西側を街道の標識をたどってちょっと歩いてみたいと思う。

常盤橋の手前、室町の通りは道幅も狭く街道だった頃の面影が残っている。
(画面中央 奥に見えるのが常盤橋。)

「小倉縣廰ノ址」の石碑。小さい石碑なので気づかずに通り過ぎそうになった。

“縣廰”は県庁のこと。昔は小倉県というのものがあったらしい。調べてみたら明治四年から明治9年まで存在していた模様。
Wikipedia 小倉県


そのすぐ近くに、小倉県庁だった建物の一部も残っている。
今はお店が入居して営業していた。


ちょっと横道にそれたが旧長崎街道にまた戻る。

通り沿いにある建物の一角には「長崎街道ギャラリー」という展示コーナーもあり、発掘調査の際に出土した古銭や陶磁器などが展示されていた。日本各地、さらには海外の様々な陶磁器を見ることができる。

飯塚で見た黒ポストがここにもあった。

そしてここは長崎街道と唐津街道の合流点だった交差点。今では住宅の間の静かな通りとなっている。

(来訪日:2019/03/24)

シュガーロード紀行 小倉#001 小倉城と常盤橋

春先の某日、小倉にやってきた。
まずは小倉のシンボル、小倉城を訪れたいと思う。


小倉に最初に城を築いたのは戦国時代に中国地方を支配していた毛利氏。
関ヶ原の戦いの後、この地の領主となった細川忠興によって天守閣を持つ小倉城が築城された。

細川氏はこの後肥後熊本に配置替え、代わって譜代大名の小笠原氏が藩主となり以後幕末まで小笠原氏がこの地を治める。(本州への接続地・九州の要でもあったこの場所を譜代大名に守らせたいという幕府の思惑があった為らしい。)

天守閣は天保年間に火災により焼失、その後幕末の長州征討の際に小笠原氏自らが城を燃やしてししまう。

現在の天守閣は昭和30年代に再建されたもの。
天守閣の最上階が出っ張った「唐造」という珍しい構造になっている。城の内部は細川氏・小笠原氏や小倉の歴史に関する史料が展示されている。城内には小倉城庭園や八坂神社もあり、散策をするのも楽しい。

常盤橋

小倉城のすぐそば、市街中心を流れる紫川に架かるのが常盤橋、ここが長崎街道の起終点。

1611年、筑前六宿が整備された。 遅くとも1624年9月までには、橋が架けられた(細川藩日帳)。

当初から幕末まで大橋と呼ばれ、元禄からは常盤橋とも呼ばれるようになった。参勤交代や外国文物・産品の往来のほかに、武士が多く住む西曲輪と町人が多く住む東曲輪を結ぶ橋として、上流にある豊後橋と共に使われた。

明治時代、県の直轄管理(1881年)となり、鉄橋(1889年)となったが、上流に勝山橋、紫川橋ができると、その役割は小さくなっていった。

Wikipedia「常盤橋」

現在の橋は1995年にかけ替えられたものが、橋の西岸のたもとには江戸時代の橋で橋脚に使われていた石も置いてある。

昔の荷揚げ場も復元されている。


常盤橋は伊能忠敬の九州における測量の開始地点でもあったことから、東岸には「伊能忠敬顕彰碑」も設置されている。

顕彰碑のある場所からは、ちょうど株式会社ゼンリンの「地図の資料館」が入っているビルも見える。今と昔の、それぞれ日本の地図作成の第一人者的存在が一つの風景に収まっているのは何だか感慨深い眺めだ。

(来訪日:2019/03/24)

シュガーロード紀行 飯塚#004 飯塚の名のおこり 曩祖八幡宮・飯の山

飯塚の地名の由来については曩祖八幡宮で触れたが、地名の起こりとなったもう一つの場所とされるのが「飯(いい)の山」。
先ほど通っってきたアーケード街の近所にあるそうなので見に行ってみたいと思う。

途中、明正寺というお寺の前には「勢屯り跡」の石碑が建っている。

参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち先触(さきふれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの整列を整えたところ。
なお明正寺には享保十四年(一七二九)八代将軍吉宗に献上された象が飯塚宿を通った記録があります。

勢屯り跡を過ぎ、もう少し歩いて小高い丘の坂をのぼる。

ここが飯の山、確かにご飯を盛ったようなこんもりとした形をしている(ような気がする)。
大きな山かと思っていたが、想像していたよりかわいらしいサイズ。

石碑も建てられている。

史跡 飯の山

昔、明星寺という寺の造営が行われたとき、その開堂供養のまつりに、飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に集めたところ、飯の塚ができたので、それから飯塚と呼ぶようになったといいます。
また、神功皇后が「いつかまた逢おう」と将兵との別れを惜しまれたのが、地名の起こりであるという話と共に「飯塚」の地名の起源を説明する伝説の地であります。
ここはまた江戸時代、飯塚宿の上茶屋(本陣)のあったところでもあります。

-飯塚市教育委員会-

“ご飯の塚ができた”という伝説は、この土地が昔からお米がたくさん実る豊かな土地だったことを如実に表しているのではないかと思う。

実際、飯塚では立岩遺跡という弥生時代の遺跡も発見されていたり、飯塚とその周辺地域には数多くの古墳も残っているらしい。

先ほどの説明文にもある通り、この飯の山と向かい合うところには御茶屋(本陣)跡を示す石碑も建てられている。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 福岡博多#003 豊臣秀吉と神屋宗湛・太閤町割・利休釜掛之松

博多は、戦国時代にはその繁栄ゆえに我がものにしようとする周辺の諸大名の間で争奪戦が繰り広げられ、結果 焼け野原となってしまう。

荒廃した博多が再生される契機となったのが、九州平定のためにやってきた豊臣秀吉が黒田官兵衛らに命じて行った区画整備「太閤町割」、その際に資金の援助を行ったのが貿易で巨財をなした豪商 神屋宗湛だった。

神屋宗湛といえば、福岡市天神のヒューリック天神ビルの中庭に彼の茶室の庭が移築・復元されている。

宗湛の茶室にも秀吉は訪れたらしい。


東区馬出にある九州大学医学部の構内にも、秀吉や宗湛らが茶を楽しんだ場所が残っている。

「利休釜掛之松」という名前で、ここにも説明書きの看板が建てられていた。

天正十五年(1587年)、九州平定を終え筥崎宮に滞在した豊臣秀吉は、小寺休夢(黒田官兵衛の叔父)らと和歌を詠じ、茶人の千利休や博多の豪商神屋宗湛らと茶会を催しました。

その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖を吊して雲竜の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯を沸かしたと伝えられています。

「白砂の上に散り敷いた松葉を集めて」とある通り、昔このあたりは海沿いの砂地で松林が広がっていたと考えられる。

↑これも同じ看板にあった「宗湛献茶の図」。

なお、この頃の茶会では、果物や餅、根菜・茸類のお煮しめなどがお茶のお供だった。お茶の席でお菓子が楽しまれるようになるのはもう少し先のこと。

松の下には小さな井戸の跡らしきものもある。
この時利休たちが松の下で行った茶会が、のちに野外で茶を楽しむ「野点(のだて)」の始まりになったらしい。

シュガーロード紀行 福岡博多#001 鴻臚館と大宰府官道


福岡城跡に登り鴻臚館跡を見に行く。

この場所の来歴を遡ると大変面白く、
古くは鴻臚館

関ヶ原の合戦後には筑前藩主となった黒田長政が福岡城を築城

明治に入ると県庁に、
その後陸軍駐屯地となって城の建物はほぼ解体

戦後は一時GHQが接収

1948年福岡で開催される国体のために駐屯地跡に競技場を建設、
翌年その一部を改修して平和台球場に

といった感じで、時代の変遷とともに様々なものがつくられてきた。


平和台球場も閉場・解体され、現在は遺構や石垣のみが残り一見すると只の原っぱ。
写真の黄色い屋根の建物がこのあと訪れる鴻臚館跡展示館。


鴻臚館は現代で云うところの迎賓館。海外からの使節団や貿易商のための宿泊施設であり歓待の場だった。京・難波・筑紫の3か所にあったとの記録が残っているが、実際に遺構が発見されて存在が確認されているのはこの筑紫鴻臚館だけらしい。

本格的な発掘作業は1999年の平和台球場解体工事を契機に始まり、それ以降現在も調査が続けられてる。

発掘物の保存に使われていると思しき倉庫の柵には鴻臚館・福岡城にゆかりのある人々を紹介する看板が何枚か設置してある。その中に鴻臚館発見の最大の功労者、中山平次郎博士の紹介もあった。

中山平次郎博士は、鴻臚館が福岡城跡内にあったことを特定した人物です。
-中略-
病理学者でありながら考古学に強い関心を持っていた中山博士は、精力的に福岡の遺構について研究・調査を行います。そのころ、鴻臚館(古くは筑紫館 つくしのむろつみ と呼ばれていた)の所在地は、博多部の官内町(現在の博多区中呉服町付近)といわれていましたが、中山博士は、万葉集の「筑紫館に至り、遥かに本郷(もとつくに)を望み凄愴(いた)みて作る歌四首」を検討したうえで、通説は誤っていると指摘しました。

四首は「志賀島が見える場所」「波の音が聞こえる場所」「ひぐらしがなく場所」などの条件にあう場所で読まれたはずだが、官内町ではその条件に当てはまらないと考えたのです。その条件に合う場所を自ら探し出し「福岡城跡の位置より他にない」と結論づけています。

当時の福岡城跡は陸軍歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、招魂祭の日だけは立ち入りが許されていました。中山博士はこの日を利用して営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確認を持ちました。
-中略-
戦後、昭和24年(1949年)に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年(1987年)の外野席改修工事の際、ついに鴻臚館の遺跡が発見されました。中山博士の予見通り、ここに鴻臚館が存在したことが確定、現在も発掘調査が続いているのです。…

中山博士は昭和31年に亡くなるので鴻臚館の存在が証明されたのはそれから更に約30年を要したことになる。
考古学の専門家ではなく医大の教授が遺跡の場所を確定したのも意外だし、全容が明らかになりだしたのもついニ、三十年前というのも意外。


中山博士が手掛かりにした万葉集の歌の一つ
”今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ” は歌碑となって城跡内に建てられている。


鴻臚館跡展示館は発掘された鴻臚館南館跡の上を覆うように建てられていて、遺構や出土品を間近で見学できるようになっている。


建物内部には柱の跡をもとに宿坊の建物も復元されている。

ここから出土したものは建物に使われていた瓦、交易品とみられるさまざまな産地の陶磁器(遠くはペルシア産のものも)、当時の食器、木簡など様々。
鴻臚館周辺の当時の様子を再現した図やCG映像も観ることができるが、海岸線が現在より内陸部にあり館のすぐそばに海が広がっていたことがわかる。


これは館内にあった展示パネル。

鴻臚館から大宰府までは、上図のように、ほぼ直線状に整備された官道で結ばれていた。しかもその道幅は約7~10m以上もあり、近年この官道の跡も発掘されてその存在が確認されている。
(「大宰府に続く官道か 福岡の史跡で側溝跡出土 」日本経済新聞 2017/03/01)

外国からの使節が通る道だったので、国威を示すために一層立派な道路にしたとも考えられている。

道幅もあまり広くなく、さらに城下町やその周辺では意図的に曲がり角を多用したり見通しの悪い作りにしていた江戸時代の街道とはとても対照的に思える。

(来訪日:2018/09/23)

シュガーロード紀行 唐津#003 唐津城

歴代唐津藩藩主の居城が唐津城。

豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役の際、現在の唐津市鎮西町に名護屋城が建造されたが、唐津城はその名護屋城の解体建材を再利用して初代藩主 寺沢広高が造ったと伝わっている。

まず寺沢氏が唐津の領主だった頃の出来事を年代順に簡単にまとめてみたい。

1591(天正19年)10月 肥前名護屋城の普請開始
1592(天正20年)4月 文禄の役はじまる
1595(文禄4年) 寺沢広高が唐津の領主になる
1597(慶長2年)7月 慶長の役はじまる
1598(慶長3年)8月 秀吉の死去により日本軍の撤退開始
1600(慶長5年)9月 関ヶ原の戦いに寺沢広高は東軍で参加、天草領4万石を加増される
1602(慶長7年)唐津城の本格的な築城を開始
1608(慶長13年)唐津城完成
1615(慶長20年)大坂夏の陣により豊臣氏滅亡
1633(寛永10年)寺沢広高死去、71歳
1637(寛永14年)10月 寺沢氏の領地天草を含む地域で「島原・天草の乱」勃発
1638(寛永15年)2月 「島原・天草の乱」鎮圧、寺沢堅高から天草領が没収される
1647(正保4年)11月 寺沢堅高自死、嗣子無しの為寺沢家は断絶、唐津藩改易

寺沢広高が名護屋城の建材を再利用して唐津城を作ったのは、地理的な距離の近さもあり建材を運搬しやすかったのもあるが名護屋城の築城時に彼が普請を担当していたから、というのも理由の一つにあったかもしれない。

築城の際、広高は元は地続きだった満島山(この上に唐津城は築かれる)を切り離して、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流れを変更している。


造営時の唐津城に天守閣が築かれたのかどうかははっきりした記録が残っていない。
現在あるのは昭和40年代に建造された模擬天守。内部には唐津に関する史料が展示してある。

最上階は展望室になっていて唐津市街が一望できる。
これは唐津湾に浮かぶ高島。近年有名になった宝当神社がある。


虹の松原も端まで見渡せる。

この虹の松原を作ったのも寺沢広高。
広高は新田開発なども積極的に行い、海際の耕地を砂浜の砂と風から守るために松を植えたのが始まりと言われる。


松は江戸時代を通して藩の管理下におかれて保護され、結果全長4km以上の広大な松林となり、日本三大松原の一つとしても数えられる景勝地となった。
松原沿いの砂浜は夏になると海水浴場としても賑わう。



唐津藩は寺沢氏の後も何度も領主が変わった。
松平氏、水野氏など江戸幕府の中枢も担った譜代大名が治めていた時期もある。

のちに老中となり天保の改革を行う水野忠邦も唐津藩主だった時期がある。
忠邦は唐津から浜松に転出するが、これは出世のための転封だったらしい。

水野氏の後に唐津に入ったのが小笠原氏で、その統治は明治維新まで続く。
小笠原氏は幕府への忠誠心が大変篤く戊辰戦争では最後の激戦地函館まで幕府軍として戦った。(また、あまり知られていないことだが、末期の新選組には唐津藩士が多く参加していたらしい。この件については機会を見つけて詳しく調べてみたいと思う。)

(来訪日:2018/07/06)

 

シュガーロード紀行 唐津#001 菜畑遺跡

※註
今回の唐津と以降に取り上げる福岡・博多は、旧唐津街道上にあり長崎街道からは外れるのだが、この二つの街道は所々で交差し距離的にも近い。また、その地を代表する銘菓もシュガーロードや異国の文化の影響を少なからず受けたものであるため、この紀行でも取り上げることにした。


博多から筑肥線に乗って約1時間半、唐津にやって来た。

まず訪れたのは菜畑遺跡。
この遺跡は昭和54年、道路工事中に偶然発見され、その後調査や整備が進められた。

現在見つかっている遺跡の中では日本で一番古い水稲耕作遺跡(2500~2600年前 縄文時代後期)で、国の史跡にも指定されている。


敷地内には遺跡の出土品を展示する施設「末盧館」も建てられている。
末盧館という名前は魏志倭人伝に出てくる「末盧国」(まつろのくに:現在の唐津市および周辺にあたる地域にあったと考えられる)からつけられた。


現在遺跡のある場所はかなり海から離れた所だが、当時はすぐそばに海岸線があったと考えられている。

ここでは住居跡や水田跡、甕棺墓、貝塚などが発掘された。
館内には、遺跡から見つかった炭化し真っ黒になった日本最古の籾米も展示されている。

展示パネルの説明にあったが、稲作は現在の中国南部で発祥し、海を越えて北部九州の玄海灘沿岸地域に伝播して、徐々に日本列島を北上するように広まっていったそう。

遺跡内に復元された水田では毎年古代米の栽培・収穫が行われている。

写真からもわかるように水田はかなりこじんまりしたサイズ。収穫量はあまり多くなさそうだが、この時代は狩猟・採集も行われていたので、コメはまだ主食になる以前でもあり様々な手段で得られる食料のうちの一つという位置付けだったのだろう。


敷地内には竪穴式住居も復元されている。周囲を囲む木立も縄文時代の森を復元したものらしい。

(来訪日:2018/07/06)

シュガーロード紀行 佐賀#006 築地反射炉跡

六座町iを抜け長崎街道を辿ってさらに西へ進むと築地反射炉跡がある。
築地は「ついじ」と読む。

反射炉跡は日新小学校の敷地内にある。
小学校の校舎はどうやら建て替え工事の最中らしい。


ここが築地反射炉跡。
現在建っているのは後年造られたミニチュア版。

築地反射炉は日本で初めての実用反射炉で、ここで精錬した鉄で日本初の鉄製大砲が鋳造された。

反射炉の傍らにはカノン砲も。結構大きい。

佐賀藩が西欧列強の脅威を知るきっかけとなったのが文化5年(1808年)に起こったフェートン号事件。
長崎警護役を請け負っていた佐賀藩は、事件の不始末の責任をとるために家老数人が切腹、藩主も100日の閉門に処された。

だがこのフェートン号事件の苦い経験があったからこそ、直正公の代には藩内で富国強兵策と軍備の近代化が推し進められ、結果、「薩長土肥」と称されるように、幕末から明治にかけての日本で佐賀藩が新しい時代を切り拓く重要な役割を果たすことになったのだと思う。

これは記念碑のレリーフ。当時あった反射炉は2基で、一緒に描かれている人の大きさと比較すると、かなりの高さのある建造物だったことがうかがえる。

これは校門近くにあった石の柵。文字が読みづらかったのもあって何を記念して建てられたものかはわからなかったのだが、寄進者の名前と金額が刻まれているらしいのは分かる。

(来訪日:2018/04/22)


シュガーロード紀行 佐賀#005 六座町

伊勢神社からさらに長崎街道を西へ進む。
ながさき・こくらの石の道標の角を曲がった後は、まっすぐな直線の道が続く。

その沿道に北面天満宮という神社がある。

神社の前に建っていた看板。
この神社も伊勢神社と同じく直茂公が場所を移したものらしい。

この神社から先は、六座町となる。現在はそれぞれの座のあった場所を示す標識が建てられている。


昔は業種ごとに職人さんが寄り集まって住んでいた場所だったが、今は静かな住宅地といった感じで一般住宅やアパートが多い。

六座町の終点部分は天祐寺川にかかった橋。

この橋も昔からずっとあるのだと思われる。ひどく小さい石の欄干には「六長橋」と刻まれている。六座町と長瀬町の間にあるので六長橋という名前なのだろう。佐賀ではこんな昔から使われ続けている石造りの橋をよく見る。

川に架かる部分には、安全面を考慮してと思うが金属製の柵が付け足されている。

橋のたもとにも六座町についての看板が立っていた。

(来訪日:2018/04/22)