夢野久作「少女地獄」についての断片的考察

夢野久作「少女地獄」についての断片的考察

第一話「なんでもない」

作中に登場する耳鼻科医のモデルは夢野久作の義弟にあたる石井舜耳氏と推測される。
石井氏は横浜で耳鼻科医院を開いていたが、作品に登場する臼杵医院の所在地も同じく横浜。耳鼻科関連の知識も彼から得たと思われる。この石井氏と妻(=久作の異母妹)は久作と特に親しい間柄だったことに加え、探偵小説好きだったこともあり、新青年応募前の「あやかしの鼓」を読ませて意見を聞くなど、作家としての夢野久作の姿も間近で見ていた人物といえる。

東京で久作が急逝した際、急ぎ駆け付けた近郊の身内のなかで、医師資格を持っていた故に図らずも彼の死亡確認を行うことになったのもこの石井氏だったとのこと。久作との交流や没後の回想は「怪物夢久の解剖」「久作の死んだ日」等に書き遺されている。

第二話「殺人リレー」

作品の舞台は福岡及びその近郊。作中にはバスの走るルートとして「筥崎」「多々羅」「香椎」「折尾」などの地名が登場する。また車道と交差する鉄道は現在の鹿児島本線と考えられる。
(なお箱崎水族館喫茶室店主さんに伺ったお話しによると、作品が書かれた当時、箱崎地区で実際にバスが走行していたのが現在の妙見通りとのこと。)
福岡市でバスの運行が始まったのは昭和2年、8人乗りで走行区間は西公園-博多・箱崎だった。
「殺人リレー」の発表は昭和9年。バス車掌という仕事が非常に先鋭的な存在だったことも窺える。

参照:福岡県立図書館 福岡市近代史略年表
https://lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/kindai/nenpyou3.htm
参照:明治・大正・昭和(戦前)の福岡市街地図
https://lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/kindai/index.html#select2

バスについて、作中には「一九三二年型のシボレー」とあるが、西鉄WEBミュージアムの歴代車両図鑑 1930年代のページを見ると「6〜12人乗りのフォードやシボレーなどのアメリカ車が主流であった」との記載がある。
下記ページには当時使用されていたシボレーの画像も掲載されている。
https://nnr.co.jp/museum/buss/01.html

第三話「火星の女」

この物語の主人公、人並外れた運動能力と恵まれた体格を持つ女学生 甘川歌枝のモデルは、日本女性初のオリンピックメダリスト 人見絹枝。(1907/01/01-1931/08/02)

当時、女性が陸上競技を行うことに対しても”冷たい視線”を向けられ、理解が得られ辛い環境だったことが人見の回想からも窺われる。
作品後半で主人公は大阪の新聞社への就職が決まるが、人見も大阪毎日新聞社へ入社、運動部に配属された経歴がある。また、人見は度重なる競技会出場に加え新聞社の仕事、寄付に対する御礼の活動等で体調を崩し、肺炎により24歳の若さで病没している。
参照:Wikipedia 人見絹枝

Twitterにて杉山満丸氏にいただいたリプライによれば、「人見絹枝が政治に利用されてかわいそうという想いから祖父が書いたと父(=杉山龍丸氏)から聞きました」とのこと。

作中に登場する”天神の森”は現在の水鏡天満宮付近に広がっていた森、森栖校長らが乱痴気騒ぎを繰り広げる温泉旅館は二日市温泉に実在する某老舗旅館と推測される。

創作の元となった出来事の一つが福岡で昭和8年に起きた”黒焦げ死体事件”。
糟屋郡須恵村の火葬場で黒焦げになった少女の死体が発見される。その後の捜査で被害者は脳膜炎を患い障害を持つ少女、犯人は彼女の養父と判明。多額の養育費に目が眩み引きとったものの、養女の存在が苦になり殺害、他殺と見せかける為に遺体を黒焦げにし遺棄した事件だった、とのこと。

 

その他附記

【実在事件とのリンク】
第3話「火星の女」だけでなく、第1話「なんでもない」第2話「殺人リレー」についても、久作が創作の着想を得たと思われる事件が実在する。

偽伯爵令嬢事件→「なんでもない」
昭和10年4月博多住吉の旅館で起こった事件。
嘉穂郡山田町の料理屋酌婦が自身を伯爵令嬢と騙り料金未払いのまま旅館に長期滞在、知人の侯爵から大金を受け取る、と護衛の巡査まで動員させて下関へ赴いたところで嘘がばれる。

偽検事結婚詐欺事件→「殺人リレー」
昭和5年 九州帝大法学部の学生 西田某は「卒業後は東京で検事に任命される」と騙り、婚約者の福岡県椎田町の女教師に多額の金を使わせる。西田の卒業後盛大な見送りを受け2人は東京へ旅立つが西田検事なる人物は存在しないことがわかり男は婚詐罪で逮捕される。

地元で起こる様々な事件を元に数多くの作品を書いたのは、新聞記者でもあった久作ならではの創作方法と言える。

【”地球”と呼ばれた少年・ “火星”と綽名された少女】
夢野久作の少年時代の綽名「地球」の由来は、既成の帽子が合わない程に頭が大きかったから、というのが通説だが、杉山龍丸著「わが父・夢野久作」には以下のような記載がある、
当時彼の父 杉山茂丸は二度にわたり渡米し、J.P.モルガンから巨額のドル借款を取りつけ日本興業銀行の設立を目論んでいた時期だったが、茂丸に反対する人々が「団々珍聞」なる雑誌を作り茂丸の悪口を多く載せたそうで、その表紙に描かれていたのが手足の生えた大きな地球だった。これが有名になり福岡にまで伝わって、茂丸の子である久作に「地球」というあだ名がつけられたとも考えられる、と。

第三話の主人公、甘川歌枝の綽名は「火星さん」。
否応なしに周囲から突出してしまう自己に対し、自分だけがみんなと違う、まるで異星人であるかのような疎外感・孤独感を感じていた少年時代の体験が、同じく人並外れた能力を持つが故に孤立し苦悩する主人公の姿に投影されているとも考えられる。

【本の出版は作者の没後】
全3話の中で、生前に発表されたのは「殺人リレー」のみ。
他2話を加え、黒白書房より「かきおろし探偵傑作叢書」の第一巻として「少女地獄」が刊行されたのは昭和11年3月20日、その9日前に久作は急逝している。


夢野久作「少女地獄」は青空文庫でも公開されています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card935.html

参考文献・資料
夢野久作の世界/西原和海 編
わが父・夢野久作/杉山龍丸
快人Q作ランド/夢野久作展実行委員会
福岡ミステリー案内 赤煉瓦館事件簿/福岡市総合図書館文学・文書課