「ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介」動画日本語訳

「ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介」動画日本語訳

ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介 – YouTube

2023年4月1日 ロシア ペテルブルクの書店にて行われた、ロシア語版「ドグラ・マグラ」のプレゼンテーションの動画です。


 

00:00 本が出版されるまでの経緯
12:36 感謝の輪が広がる
17:15 夢野久作の略歴
25:15 1920~30年代の日本における「ジャズ・エイジ」と「エロ・グロ・ナンセンス」
33:05 夢野久作の文体の特徴
43:46 ドグラ・マグラができるまで
49:30 ドグラ・マグラの意味とは?
54:51 この小説の二面性
1:09:51 科学と進歩への批判
1:17:27 ドグラ・マグラと日本のアンダーグラウンド
1:26:00 都市伝説・ミームとしてのドグラ・マグラ
1:29:30 日本文学の三大奇書
1:32:30 参加者からの質問

※ 以下は動画冒頭から40分頃までの音声をChatGPT、YouTube Summary with ChatGPT、DeepL翻訳を使用して日本語に翻訳した内容になります。
不自然な部分や正確に翻訳できていない部分もあるかと思いますが何卒ご了承の上お読みください。


【本が出版されるまでの経緯】

こんにちは皆さん、それでは始めましょう。
私の名前はヴィータです。今日、私たちの出版社から出版された「ドグラ・マグラ」の発表会で皆さんにお会いできることをとても嬉しく思います どんな本もただ店の棚に並ぶことはありません。とても長いプロセスが必要です。
「ドグラ・マグラ」を出版するというアイデアがどのようにして生まれ、どのように取り組んだのかについて少しお話したいと思います 。

3年前、私たちの店がまだコヴェンスキー通りにあった頃、この本の翻訳者であるアーニャが私たちに会いに来てくれたのです。
彼女はこう語りました。「私はすごいアイデアを持っているの。(日本)三大奇書と呼ばれる小説のひとつを持っていて、それを出版したいと思っているの」と。
この本について私たちは何も知らず、アーニャとこの本について数時間話しました。それから一緒に散歩に出かけ、彼女はこの本はどんなものか、「ドグラ・マグラ」とは何かについてずっと話してくれました。私たちはこの本が読みたい、そして出版しなければならないと悟りました。

ロシア語で出版したいのですが、この本はヨーロッパ言語では電子書籍は出版されておらず、フランス語の翻訳本があるだけで英訳もされていません。今回のように英訳される前の本が先にロシア語で翻訳されるのは珍しいケースです 。

出版に向けての私たちの作業が始まりました。アーニャが私たちに会いに来た時点でまだ作業が必要な草稿があったので、それを持ってきて約1年半かけて翻訳を行いました。
私たちの出版活動の第二段階は原文との照合作業です。実質的に少数の出版社が行っています。
例えば、翻訳の講義を聞いたことがあればわかるように、最も重要なのは原作者のスタイルを正確に保つことです。翻訳者自身が独自の創作を加えることはありません。

原文との照合作業に於いては、日本語が堪能な第三者の意見が必要です。今回その役割を担当したのは私たちの友人のパートナーである日本人アーティスト курокова(クロカワ?)さんでした。

数ヶ月から半年ほどかけて、アーニャとクロさんが原文と翻訳を照らし合わせながら意見を交わし、原文にできるだけ近くなるようにチェックを行って、ようやく翻訳作業が完了しました。

この本は、探偵小説として始まり、一連の文書が収められていて、本の深みに浸ることができます。途中様々な文体のパートがありますが、そのニュアンスを保ちつつもこの本自体は読みやすいものである必要があります。
完成した翻訳文は編集者のカテリーナ・グセヴァに引き取られました。

この本は、彼女が編集した本の中で最も難しい本の一つだと言っていたので、編集についても触れておきたいと思います。

(キチガイ外道祭文の)木魚を叩いて経文を読み上げる箇所についてですが、私の意見では、この祭文は一気呵成に読むのが正しい、そして、正木先生が木魚を叩くことで文体にも特定のリズムが生まれるので、ロシアの読者にもこのリズム感が伝わるようにとカテリーナさんに依頼しました。私たちは実際に木魚を叩く音も聞いてみたりもしました。
今日ここにいる皆さんはどうお感じになるかわかりませんが、私が読んだときには、彼女がこの仕事に対してうまく対処したと思っています。

編集後にはもちろん校正があります。これは標準的な出版プロセスであり、すべての本は校正されます。
私たちの店の従業員であるヴァレリー・シュライコフが校正を担当しました。彼は販売員でもあり校正も行います。
本の校正とは印刷の間違いやスペースの間違い、読者の目につくような誤りを修正する作業です。
一般的に、校正は出版の世界では一、二回もしくは三回あるものですが、何度も繰り返し行われる場合もあります。編集ごとに何かしらがずれてしまい、エラーやタイプミスがあるかもしれず、それを再び編集しなければならないからです。ヴァレリーは何回も校正や修正を行いました。

また、この本のデザインレイアウトについても言及したいです。
アーティストのアリサ・ツィガンコワさんがこの本のデザインレイアウトを担当しました。

本のカバーを作成するアーティストにとって、本の中身を理解できるように、カバーを作成する前に本を読むことが非常に重要だと考えています。そうすることで、カバーを見る人にそれがどんな内容の本なのかが伝わりやすいデザインとなり、また編集者の意図を理解した効果的なデザインレイアウトを作れるからです。
例えば、ある文書を読むと別の文書があり、それを読むとさらに入れ子で別の文章があったりという構造が、視覚的にも理解できるようになります。もしデザインレイアウトがなかった場合、単なる平文のテキストでは、視覚的に迷子になり、小説の構造を保持することができませんでした。私たちはアリサによるデザインレイアウトを非常に気に入っています。

その後、ページ組みを終えた後には校正者が再び目を通しますが、この過程は出版社・翻訳者が「これ以上修正する部分はない」と判断するまで無限に続くこともあります。私たちは繰り返しこの本を読み直し、修正が必要な箇所を確認しましたが、最終的には自己完結しこの本を印刷に出しました。この本の出版の仕方に満足しています。

そして、私は、少なくとも私たちが出版する本は書棚の上で十分な場所を占めるべきであると考えています。図書館においても同様であり、これらの本は1年や10年ではなく、長く愛されるべきであります。これらの本は子供たちに引き継ぐことができる家族の図書館の一部であり、そう扱われることにふさわしいようにきちんと出版され、装丁されるべきです。本はしっかりと綴じられ、良い紙でなければなりません。私たちは装丁や紙について全員で検討しました。

この本が出来上がり出版に至るまでに3年間かかりました。最も興味深いのは、これがチームの取り組みであることです。
誰がどのように関わったかはお話しした通りですが、例えば編集者などある工程の期間参加した人もいれば、3年間すべてのプロセスに関わった人もいます。出版社や翻訳者などがそうです。
出版社について話すと、翻訳者にテキストをすべての段階で示さない場合もあります。そのため翻訳者が出来上がった本を手にしたときに、「私はこんな提案をしたのではない、私は翻訳を行っただけだ」といった状況になることもしばしばです。
翻訳者は全ての段階において参加し、完全に関与する必要があります。出版社の仕事は、翻訳者にこのような機会を提供することです。

アーニャがこれらの年月を共にし、本のすべての段階を追ってくれたことに感謝しています。
そしてもちろん、最後に、私がさきほどお話しした全ての人に感謝したいです。彼らがいなければ、この本は存在しなかったでしょう。私のパートナー、出版社、そしてこの本について一緒に語り合うであろう翻訳者のソバシェヴァさんと共に、これらの年月に私と共に取り組んでくれた夫のプラトンにも感謝します。

【感謝の輪が広がる】

ありがとうございます。
ヴィータさんにも感謝します。また、私自身からも個人的な感謝を申し上げたいです。新刊の発売をお待ちいただいたすべての読者に感謝します。ご存じのように私たちは日本の本の翻訳出版についての経験がなく、当初は2022年の春の出版を予定していたももの、そううまくいかなかったのです。しかし、私たちはできるだけ早く出版できるように努めました。

また、書店Желтый двор(黄色の中庭)のチームにも感謝したいです。私たちの出版の取り組みを支援してくれたからこそ、この本が実現したのです。
ここで働いているのはカーチャ・ソルティコワ、オカイナ・イリャソワ、そしてヴァレリー・シュライコフさんです。
さらに、Желтый дворの女主人にも感謝したいです。彼女はとても活力に溢れていて常に何かをやっているのです。
ゲストに翻訳者のソバシェヴァさんもいらっしゃいますので、彼女にお話しを引き継いでいただきます。

ありがとうございます。この感謝の輪をもう少し広げたいと思います。この冒険に応じてくれたヴィータとプラトンに感謝したいです。
もしどのくらい売れるかなどを考えていたら、この本にそんなに簡単に手を出さなかったかもしれません。
もちろん、キュレーターであり編集者のカテリーナ・グセヴァさん、校正者のヴァレリー・シュライコフさん、そしてカバーを含む素晴らしいデザインを手がけたアリサ・ツィガンコワにも感謝したいです。
また、翻訳のプロセスでお手伝いいただいた方々にも個別に感謝したいです。もともと、3年前にドグラ。マグラを翻訳するというアイデアが浮かび、最初は何らかの共同プロジェクトが考えられていましたがうまくいかず、その後自分で全てやらないといけないことに気付いたんです。

もちろん、日本のアレクサンダー・ブリューキナ、マリア・プロホロヴァには追加の資料を提供していただいたことに感謝したいと思います。また、カトリーナ・リャボワとニコライ・カラエフにも感謝します。
これで感謝の言葉は終わります。もちろん、これだけの人たちだけではありませんが…

【夢野久作の略歴】

では、本題に入りましょう。
まず最初に、この本を最後まで読んだことがある方は手を挙げてください。….
素晴らしい、嬉しいです。
次に、この本の著者が誰かを知らないし、この本のことを聞いたこともないという方は手を挙げてください。….
そんな方もいらっしゃいますよね、はいありがとうございます。
では、読み始めたばかりで途中までしか読んでいないという方は手を挙げてください。….
それも悪くありません、私の話がネタバレになることも理解しています。
とはいえ、この本は読む人それぞれによってさまざまな解釈ができるし、全く違う感想を持つ人もいるだろうということは最初に述べておきます。

では、まずは著者の略歴から始めましょう。
著者の略歴はウィキペディアやその他の情報源からすでにご存じの方もいるかもしれません。
実際に彼は非常に興味深い人物であり、彼自身にも興味深い問題があります。

”夢野久作”というのが彼の本当の名前ではありません、本名は杉山直樹で、1889年(明治22年)1月4日に福岡で生まれました。
福岡は九州にある都市ですが、彼は地方作家でありながらも日本以外の異国情緒あふれる場所や地域についても書いていました。これについては後で少しお話しします。
彼はユーモラスなペンネームをたくさん持っていて、”夢野久作”はそのうちの1つです。

彼は興味深い足跡を残した家族に生まれました。父親の名前は茂丸といい、日本の政治において黒幕的な存在であったと言われています。
国民主義的な立場を持っていた人物です。彼と父親との関係は難しかったとされていますが、一概にそうとは言えないかもしれません。
後年回想録を残し、父親についてあたたかい親子の情愛を持って語ってもいます。

彼の母親の名前はホトリでしたが、嫁ぎ先の家族の中での生活に馴染むことができなかったようです。
久作が2歳の時に両親は離婚し、彼は祖父に育てられました。彼自身は子供の頃は虚弱だったと書いています。
優れた記憶力を持ち、まさに天才的と言えるほどの才能を持っていました。中国の古典を学び、能を学びましたが、年齢を重ねるとともに文学に興味を持つようになりました。

彼は宗教に興味を持ち、エドガー・アラン・ポーを読み、おそらく他の日本の作家たちと同様に、テニスをして過ごし、高校を卒業した後は大学に入学したいと思いました。大学の歴史学部に入学し、一時は歴史を学んでいました。
その大学は東京にある私立大学で、かなりの名門校です。しかし、大学での勉学は父親の反対にあい中断します。

大学を中途退学した後、仏教の僧侶として2年間過ごしたり、農場で働いたり、一時期は記者として新聞社に勤めていました。
その後結婚し、3人の息子をもうけます。これは重要なことです、なぜなら彼の長男が後に「インド緑化の父」と呼ばれるようになり、将来的にインドの砂漠を救う人物となったからです。

彼の家族は日本史にも異例の足跡を残しました。
しかし、私たちの主人公である彼自身は、1919年(大正8年)の終わりに新聞記者として働き始めたころから小説家としての道を歩み始めました。この新聞社は彼の父親が所有していたものであり、彼はここで子供向けのさまざまな小話を書き始めました。1923年(大正12年)から1924年(大正13年)にかけては東京でも執筆活動をしていた時期がありますが、それについても後でお話しします。

そして、1926年(大正15年・昭和元年) 37歳の時に或る雑誌の編集部に送った作品が、彼の作家としてのデビュー作となります。

デビュー作は、「あやかしの鼓」という作品で、ペンネームは彼が考えたものです。
彼が自分の作品を父親に読ませたところ、父親は「夢野久作さんの書いたような文章だ」と感想を述べますが、この”夢野久作”とは博多の方言で、夢見がちで地に足のついていない人とかどこか遠くを見ているような人を指す言葉であり、彼は人生の最後の10年間このペンネームを使って数々の作品を書き残しました。

彼は小説だけでなく、詩も作りました。また、報道記者としても活躍し、散文を書いたり、短歌を書いたりしました。
そして、彼は1936年(昭和11年)に東京で亡くなりました。
父親は1年前に亡くなり、彼は父親の遺産や借金の清算処理を終えたのちに亡くなりました。彼の寿命はあまり長くはありませんでしたが、36年に47歳で亡くなったことはもしかしたらさいわいだったのかもしれません。なぜなら、それ以降日本は大きな混迷期に突入したからです。

以上、彼の伝記の簡潔な概要をお話ししましたが、重要なのは、彼はいわゆる”文壇”にいた作家ではなかったということです。この点をしっかり押さえていただければと思います。

【1920~30年代の日本における「ジャズ・エイジ」と「エロ・グロ・ナンセンス」】

1920年代初期について詳しく触れたいと思います。
ご存じのように1920年代から1930年代は二度の大戦の間にあたり、実験的芸術の活発な時代であり、新しい形式の音楽や文学、映画などが急速に発展した時代です。

彼は既に執筆活動を行っていた時期ですが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こります。これは日本の歴史上最も破壊的な地震の一つであり、東京に壊滅的な被害を与えました。地震による被害に加えて火災も発生しました。
その後、彼は震災後の東京に現れた様々な光景を描写しています。少なくとも彼の記述によれば、この地震が日本の近代化の始まりであり、日本でのジャズ時代や20年代と呼ばれるものが始まったと考えられています。
一方、ヨーロッパでは一般的に第一次世界大戦終了後の1918年(大正7年)が20年代の始まりとして考えられており、日本の場合は少し遅れて急速に近代化が進み、当時としては前例のない様々な技術、ラジオ、日刊新聞、ビルディングなどが登場しました。こうして日本人の文化や生活が急速に西洋化していきます。

「エロ・グロ・ナンセンス」という、この3つの言葉の組み合わせは(これは運動、もしくは時代精神、あるいはスローガンか、非常に曖昧で一般的な用語を選ぶことが難しいものですが)都市文化の描写でもあると言えます。それは中流階級の生活ではなく、フラッパーのような新しいモダンな人々がほぼ画一化された生活をしているというものです。それは従来の日本の伝統的な生活とはまったく異なります。また一方で猟奇的な事件、殺人事件などに強い関心がある側面も持っています。

現代の感覚に比べると、当時の都市文化は非常に異色なものとして捉えられました。
この時代、特に初期の頃を象徴するのが「桃色」の概念で、それはエロティックな傾向を持つものが多かったためですが、この「桃色」は時にプロレタリア思想を意味する「赤」とも対立してきました。
当時の日本の検閲の統計を見ると、プロレタリア作家が持ち込んだ共産主義的な禁書と、知識人向けのエロティックな書籍が半々くらいの割合であったことがわかります。

この時代に雑誌「新青年」が登場し、海外探偵小説の翻訳も掲載されますが、その後日本の作家による小説など、様々な作家の作品が掲載されるようになります。

夢野久作の文体の特徴

夢野久作の作家としてのキャリアは、雑誌「新青年」での「あやかしの鼓」掲載から始まりました。
「新青年」には、小栗虫太郎、久生十蘭、海野十三などの作家たちも執筆しました。「新青年」は日本のモダニズムを象徴する雑誌ですが、モダニズムの定義は多岐にわたり大きな論争の的でもありますので、今日は深く触れません。

ここで質問ですが、これらの作家たちの作品が掲載された「新青年」の号に目を通すと、そこにはどのような特徴が見いだせるでしょうか?
典型的な特徴として挙げられるのは、信頼性のない語り手、つまり一人称での語りであり、物語が思いもよらない展開を見せることです。

この完璧な例が、「死後の恋」という物語です。
この作品の主人公が、同じ連隊で勤務していたリヤトニコフという人物についての回想を一人語りする形式で物語が展開します。(このリヤトニコフが実は*******だった、という驚くべき展開を見せるのですが、未読の方のためにネタバレにならないよう黙っていたほうが良いですね。)
他にも類似の構造を持つ物語があり「支那米の袋」という作品もその一つです。この物語の語り手はウラジオストク出身のワーニャという少女です。これらの作品に顕著ですが、長い独白・モノローグは夢野久作作品の大きな特徴です。

長い独白が手紙として書かれた作品もあります。
例えば「瓶詰地獄」いう作品がその一例です。これは無人島に漂着した兄妹が書いた3通の手紙からなる物語で、非常に怪奇的な展開があります。実際に、このようなプロットは日本の古典文学にも見られるものです。

夢野は自身の経験・体験を基とした作品を多く書いています。例えば、彼は新聞記者としての経験をもとにいくつかの物語を書きました。
また、「氷の涯」は、ハルビンで勤務する日本人兵士が主人公ですが、この作品には夢野自身が兵役をつとめた体験が反映されています。「氷の涯」の主人公は、陰謀やスパイ活動、そして殺人に巻き込まれ、白軍や赤軍さらに日本軍にも追われる身となり、友人のニーナとともにハルビンを逃れることを余儀なくされます。ニーナはロシア人であり、コルシカ人の血も引いており、物語の中では彼女もまた謎めいた人物として描かれています。

夢野の作品は、登場するロシア人の名前の正確さにも驚かされます。
「氷の涯」に、ニーナの養父であるオスロフ・オリドイスキーという人物も登場しますが、彼はあたかも夢野の父親のような、国家主義的な思想を持つ政界の黒幕的存在として描かれています。
興味深いのは、彼の作品にはかなりステレオタイプな人物やキャラクターがいることですが、一部の女性キャラクターはとても強く、単に助けを求める女性のキャラクターではありません

もう1つの興味深い点は、彼のロシアへの興味です。先ほどお話ししたように、彼の作品には、ウラジオストクやハルビンなど、ロシアの都市が舞台となるものがあります。これは非常に興味深いことです。彼はロシアに対しエキゾチックな魅力を感じていたのだと思います。当時は特に、ロシアは革命後の国として、独特な印象を持っていたのでしょう。

また、当時の日本文学はロシア文学から大きな影響も受けていました。その影響の一端は「ドグラ・マグラ」冒頭のページにも見られます。
「巻頭歌」と題し、”胎児よ胎児よ何故躍る 母親の心がわかって恐ろしいのか”という詩が掲げられていますが、これは、ロシアの民謡「黒い鴉」の日本語訳、”鴉よ鴉よ何故空に舞う 斃れし我が身を餌食と見てか” のパロディです。
私は「黒い鴉」がどのようにして日本に伝わったのかが理解できませんでした。ゴーリキの戯曲「どん底」を通じて伝わったのかもしれませんが、いずれにせよ、この民謡の日本語訳のテキストは「鴉」から始まります。比較してみると、同じ詩であることは明らかです。

有名な「カチューシャの唄」の”カチューシャかわいや わかれのつらさ”というフレーズが日本で大流行したのは1915年(大正4年)もしくは1919年(大正8年)頃です。トルストイの小説「復活」を基に日本で制作・上映された舞台や映画で歌われたのが、この「カチューシャの唄」でした。

名前を忘れてしまいましたが、確か松井須磨子という当時の有名女優がその歌を歌い、おそらく日本における最初の、所謂流行歌となりました。
YouTubeでも聴くことができますが、音質はあまり良くありません。それでもこの歌によってロシア語の「カチューシャ」は日本に深く浸透し、髪留めを意味するようになったのです。これはトルストイとその小説、そしてこの歌のおかげです。

ここで議論に移る前に、この動画をご覧になる方たちのために私たちがどのような本について話しているのかを述べておこうと思います。

この本(ドグラ・マグラ)は探偵小説です。かつて日本では探偵小説が非常に流行したことがあり、戦前のこの時代は探偵小説を書く作家たちが登場し始めた時期でした。現在では確かに”探偵小説”というジャンルの解体が行われているかもしれませんが。
そして、このジャンルに属する作品群には明確に指摘できる特徴がありました。

奇妙な登場人物たちや美しい情景、物理的な異常を持った若い女性たち、狂気じみた医学的実験、演劇的な方法での犯罪の謎解きなど、純粋な探偵小説の特徴を持ちながらもさらに進化を遂げています。
私たちが今こうして、2023年のサンクトペテルブルクで当時の探偵小説やその執筆者を議論していますが、それらの大部分の作品は現在では忘れ去られてしまいました。

ドグラ・マグラができるまで

「ドグラ・マグラ」は、探偵小説ではありますが、その従来の枠組みを破った、極めて難解な作品だと言えます。これについては後程詳しくお話しすることになるでしょう。

まずはこの作品の創作の経緯から語る必要があると思いますが、夢野はこの作品の完成までに20年の時を費したと主張しています。(“ドグラ・マグラ」は二十年がかりの作品です。十年考へ、あとの十年で書き直し書き直し抜いて出来たものです。“)

実際にはもう少し短かったかもしれません。
というのも、1926年(大正15年)5月には既に、彼の日記に最初の原稿執筆作業に関する記述がみられるからです。
当初は「狂人の開放治療」というタイトルで、1927年にこの小説の素案が執筆され、1930年にはそれが「ドグラ・マグラ」というタイトルになりました。
つまり、作品が完成したのは執筆開始から5年後であり、その後も彼は継続的に書き直し、補足を加えていました。私の見解では、1930年代には既に何度か書き直され、新しい部分や細部が追加されており、実際にこの作品の執筆には彼が10年の月日を費やした痕跡があります。