「ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介」動画日本語訳

「ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介」動画日本語訳

ドグラ・マグラ とその作者、夢野久作の著書紹介 – YouTube

2023年4月1日 ロシア ペテルブルクの書店にて行われた、ロシア語版「ドグラ・マグラ」のプレゼンテーションの動画です。


 

00:00 本が出版されるまでの経緯
12:36 感謝の輪が広がる
17:15 夢野久作の略歴
25:15 1920~30年代の日本における「ジャズ・エイジ」と「エロ・グロ・ナンセンス」
33:05 夢野久作の文体の特徴
43:46 ドグラ・マグラができるまで
49:30 ドグラ・マグラの意味とは?
54:51 この小説の二面性
1:09:51 科学と進歩への批判
1:17:27 ドグラ・マグラと日本のアンダーグラウンド
1:26:00 ミームとしてのドグラ・マグラ
1:29:30 日本三大奇書
1:32:30 参加者からの質問

※ 以下は動画の音声をChatGPTを使用して日本語に翻訳した内容になります。不自然な部分や正確に翻訳できていない部分も多々あるかと思いますが何卒ご了承の上お読みください。
※ 2024年5月 「ドグラ・マグラの意味とは?」以降の翻訳を追記しました。


本が出版されるまでの経緯

こんにちは皆さん、それでは始めましょう。
私の名前はヴィータです。今日、私たちの出版社から出版された「ドグラ・マグラ」の発表会で皆さんにお会いできることをとても嬉しく思います どんな本もただ店の棚に並ぶことはありません。とても長いプロセスが必要です。
「ドグラ・マグラ」を出版するというアイデアがどのようにして生まれ、どのように取り組んだのかについて少しお話したいと思います 。

3年前、私たちの店がまだコヴェンスキー通りにあった頃、この本の翻訳者であるアーニャが私たちに会いに来てくれたのです。
彼女はこう語りました。「私はすごいアイデアを持っているの。(日本)三大奇書と呼ばれる小説のひとつを持っていて、それを出版したいと思っているの」と。
この本について私たちは何も知らず、アーニャとこの本について数時間話しました。それから一緒に散歩に出かけ、彼女はこの本はどんなものか、「ドグラ・マグラ」とは何かについてずっと話してくれました。私たちはこの本が読みたい、そして出版しなければならないと悟りました。

ロシア語で出版したいのですが、この本はヨーロッパ言語では電子書籍は出版されておらず、フランス語の翻訳本があるだけで英訳もされていません。今回のように英訳される前の本が先にロシア語で翻訳されるのは珍しいケースです 。

出版に向けての私たちの作業が始まりました。アーニャが私たちに会いに来た時点でまだ作業が必要な草稿があったので、それを持ってきて約1年半かけて翻訳を行いました。
私たちの出版活動の第二段階は原文との照合作業です。実質的に少数の出版社が行っています。
例えば、翻訳の講義を聞いたことがあればわかるように、最も重要なのは原作者のスタイルを正確に保つことです。翻訳者自身が独自の創作を加えることはありません。

原文との照合作業に於いては、日本語が堪能な第三者の意見が必要です。今回その役割を担当したのは私たちの友人のパートナーである日本人アーティスト курокова(クロカワ?)さんでした。

数ヶ月から半年ほどかけて、アーニャとクロさんが原文と翻訳を照らし合わせながら意見を交わし、原文にできるだけ近くなるようにチェックを行って、ようやく翻訳作業が完了しました。

この本は、探偵小説として始まり、一連の文書が収められていて、本の深みに浸ることができます。途中様々な文体のパートがありますが、そのニュアンスを保ちつつもこの本自体は読みやすいものである必要があります。
完成した翻訳文は編集者のカテリーナ・グセヴァに引き取られました。

この本は、彼女が編集した本の中で最も難しい本の一つだと言っていたので、編集についても触れておきたいと思います。

(キチガイ外道祭文の)木魚を叩いて経文を読み上げる箇所についてですが、私の意見では、この祭文は一気呵成に読むのが正しい、そして、正木先生が木魚を叩くことで文体にも特定のリズムが生まれるので、ロシアの読者にもこのリズム感が伝わるようにとカテリーナさんに依頼しました。私たちは実際に木魚を叩く音も聞いてみたりもしました。
今日ここにいる皆さんはどうお感じになるかわかりませんが、私が読んだときには、彼女がこの仕事に対してうまく対処したと思っています。

編集後にはもちろん校正があります。これは標準的な出版プロセスであり、すべての本は校正されます。
私たちの店の従業員であるヴァレリー・シュライコフが校正を担当しました。彼は販売員でもあり校正も行います。
本の校正とは印刷の間違いやスペースの間違い、読者の目につくような誤りを修正する作業です。
一般的に、校正は出版の世界では一、二回もしくは三回あるものですが、何度も繰り返し行われる場合もあります。編集ごとに何かしらがずれてしまい、エラーやタイプミスがあるかもしれず、それを再び編集しなければならないからです。ヴァレリーは何回も校正や修正を行いました。

また、この本のデザインレイアウトについても言及したいです。
アーティストのアリサ・ツィガンコワさんがこの本のデザインレイアウトを担当しました。

本のカバーを作成するアーティストにとって、本の中身を理解できるように、カバーを作成する前に本を読むことが非常に重要だと考えています。そうすることで、カバーを見る人にそれがどんな内容の本なのかが伝わりやすいデザインとなり、また編集者の意図を理解した効果的なデザインレイアウトを作れるからです。
例えば、ある文書を読むと別の文書があり、それを読むとさらに入れ子で別の文章があったりという構造が、視覚的にも理解できるようになります。もしデザインレイアウトがなかった場合、単なる平文のテキストでは、視覚的に迷子になり、小説の構造を保持することができませんでした。私たちはアリサによるデザインレイアウトを非常に気に入っています。

その後、ページ組みを終えた後には校正者が再び目を通しますが、この過程は出版社・翻訳者が「これ以上修正する部分はない」と判断するまで無限に続くこともあります。私たちは繰り返しこの本を読み直し、修正が必要な箇所を確認しましたが、最終的には自己完結しこの本を印刷に出しました。この本の出版の仕方に満足しています。

そして、私は、少なくとも私たちが出版する本は書棚の上で十分な場所を占めるべきであると考えています。図書館においても同様であり、これらの本は1年や10年ではなく、長く愛されるべきであります。これらの本は子供たちに引き継ぐことができる家族の図書館の一部であり、そう扱われることにふさわしいようにきちんと出版され、装丁されるべきです。本はしっかりと綴じられ、良い紙でなければなりません。私たちは装丁や紙について全員で検討しました。

この本が出来上がり出版に至るまでに3年間かかりました。最も興味深いのは、これがチームの取り組みであることです。
誰がどのように関わったかはお話しした通りですが、例えば編集者などある工程の期間参加した人もいれば、3年間すべてのプロセスに関わった人もいます。出版社や翻訳者などがそうです。
出版社について話すと、翻訳者にテキストをすべての段階で示さない場合もあります。そのため翻訳者が出来上がった本を手にしたときに、「私はこんな提案をしたのではない、私は翻訳を行っただけだ」といった状況になることもしばしばです。
翻訳者は全ての段階において参加し、完全に関与する必要があります。出版社の仕事は、翻訳者にこのような機会を提供することです。

アーニャがこれらの年月を共にし、本のすべての段階を追ってくれたことに感謝しています。
そしてもちろん、最後に、私がさきほどお話しした全ての人に感謝したいです。彼らがいなければ、この本は存在しなかったでしょう。私のパートナー、出版社、そしてこの本について一緒に語り合うであろう翻訳者のソバシェヴァさんと共に、これらの年月に私と共に取り組んでくれた夫のプラトンにも感謝します。

感謝の輪が広がる

ありがとうございます。
ヴィータさんにも感謝します。また、私自身からも個人的な感謝を申し上げたいです。新刊の発売をお待ちいただいたすべての読者に感謝します。ご存じのように私たちは日本の本の翻訳出版についての経験がなく、当初は2022年の春の出版を予定していたももの、そううまくいかなかったのです。しかし、私たちはできるだけ早く出版できるように努めました。

また、書店Желтый двор(黄色の中庭)のチームにも感謝したいです。私たちの出版の取り組みを支援してくれたからこそ、この本が実現したのです。
ここで働いているのはカーチャ・ソルティコワ、オカイナ・イリャソワ、そしてヴァレリー・シュライコフさんです。さらに、Желтый дворの女主人にも感謝したいです。彼女はとても活力に溢れていて常に何かをやっているのです。ゲストに翻訳者のソバシェヴァさんもいらっしゃいますので、彼女にお話しを引き継いでいただきます。

ありがとうございます。この感謝の輪をもう少し広げたいと思います。この冒険に応じてくれたヴィータとプラトンに感謝したいです。
もしどのくらい売れるかなどを考えていたら、この本にそんなに簡単に手を出さなかったかもしれません。
もちろん、キュレーターであり編集者のカテリーナ・グセヴァさん、校正者のヴァレリー・シュライコフさん、そしてカバーを含む素晴らしいデザインを手がけたアリサ・ツィガンコワにも感謝したいです。
また、翻訳のプロセスでお手伝いいただいた方々にも個別に感謝したいです。もともと、3年前にドグラ。マグラを翻訳するというアイデアが浮かび、最初は何らかの共同プロジェクトが考えられていましたがうまくいかず、その後自分で全てやらないといけないことに気付いたんです。

もちろん、日本のアレクサンダー・ブリューキナ、マリア・プロホロヴァには追加の資料を提供していただいたことに感謝したいと思います。また、カトリーナ・リャボワとニコライ・カラエフにも感謝します。
これで感謝の言葉は終わります。もちろん、これだけの人たちだけではありませんが…

夢野久作の略歴

では、本題に入りましょう。
まず最初に、この本を最後まで読んだことがある方は手を挙げてください。….
素晴らしい、嬉しいです。
次に、この本の著者が誰かを知らないし、この本のことを聞いたこともないという方は手を挙げてください。….
そんな方もいらっしゃいますよね、はいありがとうございます。
では、読み始めたばかりで途中までしか読んでいないという方は手を挙げてください。….
それも悪くありません、私の話がネタバレになることも理解しています。
とはいえ、この本は読む人それぞれによってさまざまな解釈ができるし、全く違う感想を持つ人もいるだろうということは最初に述べておきます。

では、まずは著者の略歴から始めましょう。
著者の略歴はウィキペディアやその他の情報源からすでにご存じの方もいるかもしれません。
実際に彼は非常に興味深い人物であり、彼自身にも興味深い問題があります。

”夢野久作”というのが彼の本当の名前ではありません、本名は杉山直樹で、1889年(明治22年)1月4日に福岡で生まれました。
福岡は九州にある都市ですが、彼は地方作家でありながらも日本以外の異国情緒あふれる場所や地域についても書いていました。これについては後で少しお話しします。
彼はユーモラスなペンネームをたくさん持っていて、”夢野久作”はそのうちの1つです。

彼は興味深い足跡を残した家族に生まれました。父親の名前は茂丸といい、日本の政治において黒幕的な存在であったと言われています。
国民主義的な立場を持っていた人物です。彼と父親との関係は難しかったとされていますが、一概にそうとは言えないかもしれません。
後年回想録を残し、父親についてあたたかい親子の情愛を持って語ってもいます。

彼の母親の名前はホトリでしたが、嫁ぎ先の家族の中での生活に馴染むことができなかったようです。
久作が2歳の時に両親は離婚し、彼は祖父に育てられました。彼自身は子供の頃は虚弱だったと書いています。
優れた記憶力を持ち、まさに天才的と言えるほどの才能を持っていました。中国の古典を学び、能を学びましたが、年齢を重ねるとともに文学に興味を持つようになりました。

彼は宗教に興味を持ち、エドガー・アラン・ポーを読み、おそらく他の日本の作家たちと同様に、テニスをして過ごし、高校を卒業した後は大学に入学したいと思いました。大学の歴史学部に入学し、一時は歴史を学んでいました。
その大学は東京にある私立大学で、かなりの名門校です。しかし、大学での勉学は父親の反対にあい中断します。

大学を中途退学した後、仏教の僧侶として2年間過ごしたり、農場で働いたり、一時期は記者として新聞社に勤めていました。
その後結婚し、3人の息子をもうけます。これは重要なことです、なぜなら彼の長男が後に「インド緑化の父」と呼ばれるようになり、将来的にインドの砂漠を救う人物となったからです。

彼の家族は日本史にも異例の足跡を残しました。
しかし、私たちの主人公である彼自身は、1919年(大正8年)の終わりに新聞記者として働き始めたころから小説家としての道を歩み始めました。この新聞社は彼の父親が所有していたものであり、彼はここで子供向けのさまざまな小話を書き始めました。1923年(大正12年)から1924年(大正13年)にかけては東京でも執筆活動をしていた時期がありますが、それについても後でお話しします。

そして、1926年(大正15年・昭和元年) 37歳の時に或る雑誌の編集部に送った作品が、彼の作家としてのデビュー作となります。

デビュー作は、「あやかしの鼓」という作品で、ペンネームは彼が考えたものです。
彼が自分の作品を父親に読ませたところ、父親は「夢野久作さんの書いたような文章だ」と感想を述べますが、この”夢野久作”とは博多の方言で、夢見がちで地に足のついていない人とかどこか遠くを見ているような人を指す言葉であり、彼は人生の最後の10年間このペンネームを使って数々の作品を書き残しました。

彼は小説だけでなく、詩も作りました。また、報道記者としても活躍し、散文を書いたり、短歌を書いたりしました。
そして、彼は1936年(昭和11年)に東京で亡くなりました。
父親は1年前に亡くなり、彼は父親の遺産や借金の清算処理を終えたのちに亡くなりました。彼の寿命はあまり長くはありませんでしたが、36年に47歳で亡くなったことはもしかしたらさいわいだったのかもしれません。なぜなら、それ以降日本は大きな混迷期に突入したからです。

以上、彼の伝記の簡潔な概要をお話ししましたが、重要なのは、彼はいわゆる”文壇”にいた作家ではなかったということです。この点をしっかり押さえていただければと思います。

1920~30年代の日本における「ジャズ・エイジ」と「エロ・グロ・ナンセンス」

1920年代初期について詳しく触れたいと思います。
ご存じのように1920年代から1930年代は二度の大戦の間にあたり、実験的芸術の活発な時代であり、新しい形式の音楽や文学、映画などが急速に発展した時代です。

彼は既に執筆活動を行っていた時期ですが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こります。これは日本の歴史上最も破壊的な地震の一つであり、東京に壊滅的な被害を与えました。地震による被害に加えて火災も発生しました。
その後、彼は震災後の東京に現れた様々な光景を描写しています。少なくとも彼の記述によれば、この地震が日本の近代化の始まりであり、日本でのジャズ・エイジや狂騒の20年代と呼ばれるものが始まったと考えられています。
一方、ヨーロッパでは一般的に第一次世界大戦終了後の1918年(大正7年)が狂騒の20年代の始まりとして考えられており、日本の場合は少し遅れて急速に近代化が進み、当時としては前例のない様々な技術、ラジオ、日刊新聞、ビルディングなどが登場しました。こうして日本人の文化や生活が急速に西洋化していきます。

「エロ・グロ・ナンセンス」という、この3つの言葉の組み合わせは(これは運動、もしくは時代精神、あるいはスローガンか、非常に曖昧で一般的な用語を選ぶことが難しいものですが)都市文化の描写でもあると言えます。それは中流階級の生活ではなく、フラッパーのような新しいモダンな人々がほぼ画一化された生活をしているというものです。それは従来の日本の伝統的な生活とはまったく異なります。また一方で猟奇的な事件、殺人事件などに強い関心がある側面も持っています。

現代の感覚に比べると、当時の都市文化は非常に異色なものとして捉えられました。
この時代、特に初期の頃を象徴するのが「桃色」の概念で、それはエロティックな傾向を持つものが多かったためですが、この「桃色」は時にプロレタリア思想を意味する「赤」とも対立してきました。
当時の日本の検閲の統計を見ると、プロレタリア作家が持ち込んだ共産主義的な禁書と、知識人向けのエロティックな書籍が半々くらいの割合であったことがわかります。

この時代に雑誌「新青年」が登場し、海外探偵小説の翻訳も掲載されますが、その後日本の作家による小説など、様々な作家の作品が掲載されるようになります。

夢野久作の文体の特徴

夢野久作の作家としてのキャリアは、雑誌「新青年」での「あやかしの鼓」掲載から始まりました。
「新青年」には、小栗虫太郎、久生十蘭、海野十三などの作家たちも執筆しました。「新青年」は日本のモダニズムを象徴する雑誌ですが、モダニズムの定義は多岐にわたり大きな論争の的でもありますので、今日は深く触れません。

ここで質問ですが、これらの作家たちの作品が掲載された「新青年」の号に目を通すと、そこにはどのような特徴が見いだせるでしょうか?
典型的な特徴として挙げられるのは、信頼性のない語り手、つまり一人称での語りであり、物語が思いもよらない展開を見せることです。

この完璧な例が、「死後の恋」という物語です。
この作品の主人公が、同じ連隊で勤務していたリヤトニコフという人物についての回想を一人語りする形式で物語が展開します。(このリヤトニコフが実は*******だった、という驚くべき展開を見せるのですが、未読の方のためにネタバレにならないよう黙っていたほうが良いですね。)
他にも類似の構造を持つ物語があり「支那米の袋」という作品もその一つです。この物語の語り手はウラジオストク出身のワーニャという少女です。これらの作品に顕著ですが、長い独白・モノローグは夢野久作作品の大きな特徴です。

長い独白が手紙として書かれた作品もあります。
例えば「瓶詰地獄」いう作品がその一例です。これは無人島に漂着した兄妹が書いた3通の手紙からなる物語で、非常に怪奇的な展開があります。実際に、このようなプロットは日本の古典文学にも見られるものです。

夢野は自身の経験・体験を基とした作品を多く書いています。例えば、彼は新聞記者としての経験をもとにいくつかの物語を書きました。
また、「氷の涯」は、ハルビンで勤務する日本人兵士が主人公ですが、この作品には夢野自身が兵役をつとめた体験が反映されています。「氷の涯」の主人公は、陰謀やスパイ活動、そして殺人に巻き込まれ、白軍や赤軍さらに日本軍にも追われる身となり、友人のニーナとともにハルビンを逃れることを余儀なくされます。ニーナはロシア人であり、コルシカ人の血も引いており、物語の中では彼女もまた謎めいた人物として描かれています。

夢野の作品は、登場するロシア人の名前の正確さにも驚かされます。
「氷の涯」に、ニーナの養父であるオスロフ・オリドイスキーという人物も登場しますが、彼はあたかも夢野の父親のような、国家主義的な思想を持つ政界の黒幕的存在として描かれています。
興味深いのは、彼の作品にはかなりステレオタイプな人物やキャラクターがいることですが、一部の女性キャラクターはとても強く、単に助けを求める女性のキャラクターではありません

もう1つの興味深い点は、彼のロシアへの興味です。先ほどお話ししたように、彼の作品には、ウラジオストクやハルビンなど、ロシアの都市が舞台となるものがあります。これは非常に興味深いことです。彼はロシアに対しエキゾチックな魅力を感じていたのだと思います。当時は特に、ロシアは革命後の国として、独特な印象を持っていたのでしょう。

また、当時の日本文学はロシア文学から大きな影響も受けていました。その影響の一端は「ドグラ・マグラ」冒頭のページにも見られます。
「巻頭歌」と題し、”胎児よ胎児よ何故躍る 母親の心がわかって恐ろしいのか”という詩が掲げられていますが、これは、ロシアの民謡「黒い鴉」の日本語訳、”鴉よ鴉よ何故空に舞う 斃れし我が身を餌食と見てか” のパロディです。
私は「黒い鴉」がどのようにして日本に伝わったのかが理解できませんでした。ゴーリキの戯曲「どん底」を通じて伝わったのかもしれませんが、いずれにせよ、この民謡の日本語訳のテキストは「鴉」から始まります。比較してみると、同じ詩であることは明らかです。

有名な「カチューシャの唄」の”カチューシャかわいや わかれのつらさ”というフレーズが日本で大流行したのは1915年(大正4年)もしくは1919年(大正8年)頃です。トルストイの小説「復活」を基に日本で制作・上映された舞台や映画で歌われたのが、この「カチューシャの唄」でした。

名前を忘れてしまいましたが、確か松井須磨子という当時の有名女優がその歌を歌い、おそらく日本における最初の、所謂流行歌となりました。
YouTubeでも聴くことができますが、音質はあまり良くありません。それでもこの歌によってロシア語の「カチューシャ」は日本に深く浸透し、髪留めを意味するようになったのです。これはトルストイとその小説、そしてこの歌のおかげです。

ここで議論に移る前に、この動画をご覧になる方たちのために私たちがどのような本について話しているのかを述べておこうと思います。

この本(ドグラ・マグラ)は探偵小説です。かつて日本では探偵小説が非常に流行したことがあり、戦前のこの時代は探偵小説を書く作家たちが登場し始めた時期でした。現在では確かに”探偵小説”というジャンルの解体が行われているかもしれませんが。
そして、このジャンルに属する作品群には明確に指摘できる特徴がありました。

奇妙な登場人物たちや美しい情景、物理的な異常を持った若い女性たち、狂気じみた医学的実験、演劇的な方法での犯罪の謎解きなど、純粋な探偵小説の特徴を持ちながらもさらに進化を遂げています。
私たちが今こうして、2023年のサンクトペテルブルクで当時の探偵小説やその執筆者を議論していますが、それらの大部分の作品は現在では忘れ去られてしまいました。

ドグラ・マグラができるまで

「ドグラ・マグラ」は、探偵小説ではありますが、その従来の枠組みを破った、極めて難解な作品だと言えます。これについては後程詳しくお話しすることになるでしょう。

まずはこの作品の創作の経緯から語る必要があると思いますが、夢野はこの作品の完成までに20年の時を費したと主張しています。(“ドグラ・マグラ」は二十年がかりの作品です。十年考へ、あとの十年で書き直し書き直し抜いて出来たものです。“)

実際にはもう少し短かったかもしれません。
というのも、1926年(大正15年)5月には既に、彼の日記に最初の原稿執筆作業に関する記述がみられるからです。
当初は「狂人の開放治療」というタイトルで、1927年にこの小説の素案が執筆され、1930年にはそれが「ドグラ・マグラ」というタイトルになりました。
つまり、作品が完成したのは執筆開始から5年後であり、その後も彼は継続的に書き直し、補足を加えていました。私の見解では、1930年代には既に何度か書き直され、新しい部分や細部が追加されており、実際にこの作品の執筆には彼が10年の月日を費やした痕跡があります。

「ドグラ・マグラ」は、1935年(昭和10年)1月に松柏館という出版社から出版されます。
物語の時代設定が1926年(大正15年)であるため、1926年頃に実際に起こった出来事からのさまざまな影響が見いだされます。

例えば、1927年(昭和2年)に発表され、当時大きな反響を呼んだ或る戯曲です。それは「何が彼女をさうさせたか」というタイトルで、すみ子という少女の波乱に満ちた人生が描かれる物語です。この戯曲をもとにした映画がのちに(1930年)作られますが、日本のサイレント映画としては珍しく全編が現存しています。
映画の終盤、すみ子は基督教の寄宿舎に辿り着き、絶望しきった彼女が教会に放火するシーンで映画は幕を閉じます。

他にも興味深いのは、「ドグラ・マグラ」の執筆中に何かが明らかにうまくいかなかったことです。
物語の冒頭で、主人公が原稿を見ると、原稿はローマ数字で番号が振られています。
文中には「アラビア数字で」とかかれているにもかかわらず実際はローマ数字で記載されています。

それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢れてボロボロになりかけている。(中略)全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤インキの一頁大の亜剌比亜数字で、I、II、III、IV、Vと番号が打ってある。

夢野はこの間違いに気づいていなかったようです。

この作品はかなり混沌とした形で書かれており、特に中盤以降は、エロティシズムの要素が現れるようになります。実際、「ドグラ・マグラ」はエロティックでグロテスクな小説です。

もう一つ印象的なのは、作品の中に話中話として登場する、正木博士による「空前絶後の遺言書」です。
これは遺言というよりも、「天然色、浮出し、発声映画」の脚本なのですが、この中で正木博士が主人公の様子を描写するシーンがあり、そこには民族衛生学の影響が窺えます。彼(ドグラ・マグラの主人公)は純粋な日本人ではなく、異なる民族の混合物のように描写されています。異なる人種の特徴を一人の人間の中に見出すこのような学説は、おそらく1900年代の初期の短い期間、1920-1930年代頃にのみ見られたものです。

この本を構成する様々な要素は、当時の時代や思想の断面を表しているように思えます。今お話しした以外にもまだ様々な痕跡があるように思いますが、それら様々な要素が非常に混沌とした状態で絡まりあっています。
ともあれ、「ドグラ・マグラ」はとても興味深い本であり、戦間期の一種の記念碑的作品と言えます。

ドグラ・マグラの意味とは?

「ドグラ・マグラとは何ですか?」この言葉が意味するものは何でしょうか。

「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」

これはメタフィクションです。登場人物が発するこの言葉から、私たちは、明らかにこれが一般的な日本語の単語ではないことが理解できます。
そして、私も同じ質問をしたいと思います。ドグラ・マグラとはどんな意味なのでしょうか?

驚くべきことに、この問題に取り組んだすべての人が同じように答えます。どんな意味なのか確定できていない、と。また、この単語がどこから来たのか、どのようにして生まれたのかも謎です。著者自身がこの言葉を発明したのではないかとの説もあります。彼の別の作品でもこの言葉が見られるためです。

先ほど私は、これはメタフィクションだと言いました。なぜなら、物語の冒頭で主人公が或る原稿を見つけ、それには「ドグラ・マグラ」というタイトルが付けられていて、その原稿についての医師との議論があるからです。

これより以前に描かれた作品である『犬神博士』にも、”幻術(ドグラマグラ)使い”という言葉が出てます。ここでは目くらまし・妖しい術などという意味あいです。
夢野の創作に詳しい研究者によると、福岡の隣県である佐賀で、幼少期に「ドグラ・マグラ」という言葉を使っていたと言う女性がいたとの情報もあります。

また、二つ目の説として、これが何かの外来語である可能性もあります。九州には長崎など、キリスト教の影響を受けた地域があり、17世紀から19世紀中頃までオランダとの交易が行われ、極めて限定的ではあったもののキリスト教文化と接することができた唯一の場所であり、様々な外来語があったことが知られています。

三つ目の説として、この言葉は日本語で、堂廻目眩 戸惑面喰 といった言葉から来ており、それらの言葉は江戸時代の日本文学にも登場します。そして、近代の福岡でやや形を変えて「ドグラ・マグラ」として現れた、とするものです。

小説の中で著者は第二の説、つまり何か外国のもの、何かキリスト教的なものを提示し、他のいくつかの言葉の例を挙げています。(『ゲレン』『ハライソ』『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』等)
私はこれらの言葉の語源を調べることにしましたが、残念ながら、その中の「ゲレン」という言葉が理解できず、言語学に携わる人にさえ尋ねましたが、専門家からも答えを得られませんでした。

ともあれ、「ドグラ・マグラ」は “堂々巡り・目眩まし・目を欺く”といった意味合いで捉えておけば、私たちは作者の真意からそう遠くなることはないでしょう。

この小説の二面性

そして、ここで大切なのは、「ドグラ・マグラ」の二面性です。
この本を読む人は何処までが現実で何処からが虚偽なのかがわからなくなることでしょう。確かに、この物語は実在する人や場所、実際に起きた出来事に基づいて書かれている部分もあるのです。

実際に夢野の作品の多くは実際に起きた出来事に基づいて創作されています。ただし、実際に起きた出来事がそのまま小説に書かれてれているわけではありません。

まず、小説の舞台は実在します。九州帝国大学医学部、現在の九州大学です。
小説の冒頭で描かれている出来事は1907年の福岡医科大学(のちの九州帝国大学医学部)が舞台です。確かに1907年にこの大学の第一期生が卒業しています。卒業生の写真も実在しますが、勿論そこには正木博士や若林博士は写っていません。その後1911年になると九州帝国大学が設立されます。
また、Googleマップで福岡を見ると、姪浜という名前の地名があり、そこは呉一郎が住んでいたとされる場所です。小説にも登場する地名ですが、もし福岡に行く機会があれば、呉一郎が歩いた道を実際に歩くこともできるのです。

小説に登場するキャラクターたちにも、モデルとなった人物が存在しました。
「ドグラ・マグラ」は、日本の精神医学についての素晴らしい小説としても読むことができます。実在の医学者について詳しく話しましょう。

まず最初に斎藤寿八教授です。
この斎藤教授のモデルはおそらく斎藤茂吉だと思われます。彼は精神科医であり、そして歌人として有名な人物です。姓が同じで、名前も少し似ています。

次に、呉秀三です。
彼は日本の精神医学の父と言われ、この小説の二人の主人公、呉一郎と彼の祖先である中国人の呉青秀のモデルです。それぞれ、日本語の訓読み(くれ)と中国の漢字読み(ご)とを使っています。また”呉一郎”の一郎とは、日本で長男、最初の子を示す代名詞的な名前です。

呉秀三の主な功績は、1901年に巣鴨病院(のちの松沢病院)の精神科院長になったことであり、この病院の院長として、彼は精神病患者への処遇の改善や治療方針の刷新を行いました。彼はそれまで行われていた患者の拘束を禁止し、不適切な扱いをする職員の解雇も行いました。彼は患者たちを人間として扱い、自由に動き回らせ、尊重しました。

そして、「わがくに十何万の精神病者は実にこのやまいを受けたるの不幸のほかに、このくにに生まれたるの不幸をかさぬるものというべし」という言葉でも知られています。
非常に偉大な人物で、彼の患者に対するリベラルな態度は、作中の正木博士による”狂人の解放治療”にもその影響が見られます。もちろん彼だけではなく、ヨーロッパにも同様の治療法を実践していた医師がいました。

しかし、これら二人は最も重要な人物ではない可能性もあります。他にも夢野が着想を得た医師が二人存在し、彼らが主要キャラクターのプロトタイプとなりました。

その一人は法医学者の高山正雄です。
インターネットで検索すると、タキシードを着た眼鏡の紳士が登場します。彼の外見や雰囲気は作中の若林教授のイメージにも反映されています。しかし、それよりも重要なのは以下の二つの事実です。

第一に、血痕検査法としての「高山試薬」の発明者として知られています 。(注釈:高山試薬を使用した血痕検査は1960年代頃まで法医学捜査の現場で実際に行われていた)
また、第二に重要で興味深い点があります。それは、1926年に起きた「小笛事件」に関連しています。
京都市某所の或る民家で四人の女性が首を吊って亡くなっているのが発見されました。特に問題となったのが、彼女たちは首を吊って自殺したのか、それとも誰かに殺されてから首を吊ったように偽装されたのかということでした。この事件は非常な論争を引き起こし、大変綿密な現場検証も実施され、八回もの専門的な法医鑑定が行われました。この鑑定を行った法医学者の一人が高山正雄だったのです。

彼が関与した実際の事件は、「ドグラ・マグラ」での若林教授による直方事件(これも同じく女性の死体が首を吊った状態で発見される事件)の法医学的調査との類似点が多く見いだされます。

もう一人は、正木博士のモデルであり、それだけにとどまらず彼に関連する事件自体もこの本の基礎を形成しました。その人物、榊保三郎は、「神聖な木」という意味の榊という名前です。榊(さかき)は正木(まさき)とも読みが似ていますね。彼は医者の家系に生まれた精神科医であり、二人の兄弟がいて、彼らも医師であり大学教授でした。

彼は音楽にも造詣が深く、九州帝国大学でフィルハーモニックオーケストラを創設します。また伝統的な日本の詩や一般的な日本文化など、さまざまなものの愛好家でもあり、オーストリアのオイゲン・シュタイナッハ教授の大ファンでもありました。

23年から24年にかけて、シュタイナッハ教授は若返り術に取り組んでいました。彼は睾丸移植が若返りに効果があるという理論を考案した人物です。この頃に書かれたミハイル・ブルガーコフの小説「犬の心臓」(1925)を読むと、そういった若返りの実験について多くの記述が見られます。そして、シュタイナッハ教授の熱狂的なファンであった榊教授も彼の理論を熱心に説いていましたが、他の教授たちにはあまり支持されなかったようです。

24年に榊教授は公務時間外で診療を行い、それによって追加の報酬を得ていたこと(注釈:所謂「九大特診事件」、九大医学部前の旅館が遠隔地からくる患者に対して、特別に九大教授の診察を斡旋し、その「特診料」を患者に要求する一方で教授にも特別な報酬を払っていた)が発覚し、彼は辞任を余儀なくされました。
この実際の事件は、「ドグラ・マグラ」の中の大学内で起こった奇妙な事件のベースとして使用されます。

つまり、ここで言いたいことは、プロトタイプから少し離れると、登場人物の名前もそれに応じて変わってくるということです。また、彼らの言動もそれぞれの特徴に沿って描かれています。彼ら二人の医者はまるで鏡に映った像のように対照的な存在であることを示しています。

正木博士の姓に対し、ニューログラフィックな操作、名前の一部を他の言葉や概念に置き換えることで新たな意味を見出す試みを行ってみましょう。「木」を「気」に置き換えると「正気」という言葉になります。そう、彼は信じるに値する博士であるということです。
さらに、小説の一部では二人の医者の名前をアルファベットの「M」と「W」に置き換えた表記もなされています。それらはお互いの性質や行動が互いに影響を及ぼし合っていることをも示唆しています。

最近日本のTwitterで、「ドグラ・マグラ」と「巨匠とマルガリータ」(注釈:ミハイル・ブルガーコフによる長編小説、1929年から約10年の歳月をかけて執筆されるが、出版され広く知られるようになったのは作者の死後四半世紀が経過した1966年)についての考察を読みました。この二つの作品はほぼ同じ時期に書かれたものです。どちらにも「マスター」的存在の人物が登場し、他にもさまざまな相似点が見られます。

例えば(「巨匠とマルガリータ」で、イエス・キリストやローマ皇帝、ロシア皇帝など歴史上の様々な人物が登場するのと同じく)「ドグラ・マグラ」でも、中国の伝説や西洋の哲学者、医学の歴史などが独自の方法で解釈され、作品中に取り入れられています。
また、”青年名探偵、兼、脳髄学の大博士” であるアンポンタン・ポカンという奇妙なキャラクターも登場します。
彼は精神病患者として病院に収容されているのですが、(「巨匠とマルガリータ」に登場する謎の人物、巨匠も狂人として精神病棟に入れられている。)
”『物を考える脳髄』はにんげんの最大の敵である”、”脳髄は物を考える処に非ず”といった大演説を行い、それを体現するかのように、自らの頭を開き脳髄を取り出して地面に叩きつける描写があります。

「巨匠とマルガリータ」は、文学と社会、善と悪、現実と超自然といったテーマを探求していることで知られています。この物語は、宗教的、哲学的要素を豊かに取り入れ、ソビエト時代の官僚制や社会的抑圧に対する風刺としても機能しています。

一方で、「ドグラ・マグラ」は、精神医学とその周辺の倫理的、社会的問題に焦点を当てています。この小説は、精神病患者やその治療法に対する社会的な誤解と偏見を描き、日本の精神医学の発展に光を当てています。

両作品ともに、それぞれの社会におけるタブーに挑戦し、異なる視点からの現実を提示する点で共通しています。また、両小説はキャラクターが互いに反映し合う鏡像として機能することで、物語の深い層を形成しています。これは、読者にとって多角的な解釈を可能にし、より深い文学的な洞察を促す要因となっています。

夢野久作は、作家であり、その一方でジャーナリストとしても仕事をしていたため、制作スケジュールが非常にタイトだった可能性もあります。これが「ドグラ・マグラ」の内容に一貫性がない理由の一つになっている、あるいは故意に読者を惑わせるような複雑なストーリーラインを生み出す原因となっているかもしれません。

彼は或る意味福岡に於けるモダニズムの代表者と呼べる存在であり、他にも数多くの小説や作品を執筆しました。
私の意見では、福岡の文学面でのモダニズムは、高尚で優美なものではありませんが非常に興味深く独自の魅力を持っていると思います。福岡のなかでも博多、北九州、筑豊など、それぞれの地域の特色もあり、夢野以外にも面白い作家が数多く存在しています。

科学と進歩への批判

主要なテーマに移りたいと思います。私には、この本のテーマはかなり明白で、それは科学への批判、進歩への批判、そして理性や脳に対する批判的な意見です。
現代の読者にとっては、これらが驚くほど現代的なテーマに感じられるようです。なぜなら、私たちの周囲には科学的な文学作品が非常に多く、それがしばしば超合理的に脳の機能を説明しようとしているからです。

本の中で正木博士は、「脳髄は物を考える処に非ず」「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」と繰り返し述べています。
「脳髄に対する絶対的礼賛 汎世界的の唯物科学的迷信こそが、全人類界の大悪夢の根源である」
彼の理論は非常に独創的で、想像もできないほど時代を先取りしていた考え方です。さらに、正木博士の言葉から、もう一つ二つ引用したいと思います。

この唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウ沢山というくらいに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。
唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。又は宝石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車をおびやかしたりするはまだしも、大奈翁だいなおうの幽霊がアメロンゲン城の壁を撫でて、老カイゼルに嘆息して聞かせたり、ツタンカーメン王の木乃伊みいら埃及エジプト探検家にたたったりする。

『物を考える脳髄』は、(中略)物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、自涜じとく化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷さまよわせるようになってしまった。

作品に登場するキャラクターの視点、彼らの理論の絡み合いの中で、作者自身はどのような立場をとっているのでしょうか。
おそらく彼は技術的・物質主義一辺倒に向かう急激な世界の変化が、全ての人間的なものや伝説的なものを徹底的に破壊することを危惧していると思われます。

また、私は以前こう考えたことがあります。
この物語は歴史的な記憶に関する小説で、私たちが何度も同じ過ちを繰り返していることについての物語ではないだろうか、と。または皇帝への忠誠心が巻物となって1000年以上にわたって壊滅的な結果をもたらす物語、もしくは日本の精神医学へ捧げられたテキストとして、あるいは帝國大学での出来事についての報告書として読むこともできるかもしれません。

この作品を読むそれぞれの人が各々の独自の解釈を提示することで、また新たな解釈が生まれるかもしれません。
また、日本の戦間期の文化に於いて、この作品が人々にどのように認識されたかを知ることで私たちにとっては新たな発見があるかもしれません。
この作品は非常に複雑ですが、それ故に様々な解釈が可能で、それが時代を超えて読み続けられる理由にもなっていると思います。

ドグラ・マグラと日本のアンダーグラウンド

おそらく最後のトピックに移ります。
「ドグラ・マグラ」とその遺産の再発見、そして60年代の日本のアンダーグラウンドな文化圏に於いてどのように影響を与えたのかというテーマです。
1959年から1962年にかけて或る思想家が書いた記事によって、「ドグラ・マグラ」が徐々に「大いなる呪われた書」となっていく道が開かれました。(注釈:鶴見俊輔「ドグラ・マグラの世界」1962)

そして、ここにも驚くべき多くの事柄があります。以後私は「カルト」という言葉をあえて使いますが、その理由は追々理解していただけると思います。
2003年出版のフランス語版ドグラ・マグラには、多数の文化人の名前を連ねた附記があります。これは「夢野久作の世界」(西原和海編 1975)という評論集からの引用で、様々な人が様々な視点から夢野久作や彼の作品についての意見を述べています。例えば、或る評論家は、この小説を父権に対する反感のシンボルとして見ていますが、他の者はそれを抑圧された人々の声とみなしています。文化学者や精神科医によると、これは狂気に対する非常に先鋭的な視点を提供する作品です。また或る劇作家は、この作品が無意識を拒絶する試みであるとし、翻訳者や研究者はこの本が人間の本質を人工的な狂気を通じて探求するものと見ています。

私の問いは、これらすべての要素がどのように共存し、そして1960年代に日本でどのように発見されたのかということです。
「ドグラ・マグラ」が “再発見” されたのは事実です。1962年に先述の記事が発表されるまで完全に忘れ去られていたわけではありませんが、時代の流れによりそうなってしまった経緯があります。
作品が世に出た直後から、日本では軍国主義が台頭し、やがて第二次世界大戦が勃発します。戦後の混乱期を経て、1960年代に入り学生運動とともに文化の輪郭が形成され、特に雑誌「思想の科学」の執筆者たちによって再発見が始まったのです。

60年代になると(戦前の青少年期に夢野の作品を読んだ世代でもある)澁澤龍彦や中井英夫などの作家が現れます。彼らの作品は”幻想文学”と呼ばれていて、幻想とはファンタジーという意味合いですが、剣や魔法が出てくるわけではありません。それらはいわば”異端の文学”とされるものでした。
過去の文学作品に対する再評価が行われると同時に、三島由紀夫などの作家もその反逆的な文学のジャンルに加わるようになり、徐々に「ドグラ・マグラ」のカルトが形成され始めます。実際、カルト的な書物であるため、それ以外の言葉で表現するのは難しいです。

そういった過程を経て「ドグラ・マグラ」の研究者の一人が、様々な文学者や批評家による評論を集めた本「夢野久作の世界」を出版しました。私はその原書を入手することは出来なかったのですが、目次は見たことがあり、実に多くの作家が夢野久作そして「ドグラ・マグラ」について評論を書いていることがわかりました。

「ドグラ・マグラ」のオマージュ本やパスティーシュ作品も出版されました。
その中の一冊に「ドグラ・マグラの夢」という素晴らしい本があります。これは、狩々博士かりがりひろしと名乗る人物が書いた本で、この偽名は有名なドイツの映画、「カリガリ博士」(Das Cabinet des Doktor Caligari)から取られています。そして映画「カリガリ博士」も、「ドグラ・マグラ」と類似するテーマの作品です。
(注釈:映画「カリガリ博士」の公開は1920年。精神病院の院長と患者、夢遊病状態での犯罪などのモチーフは夢野の創作にも大きな影響を与えたと思われる)

ミームとしてのドグラ・マグラ

「ドグラ・マグラ」を読んだ人は、精神に異常をきたすと言われています。

日本の或る質問サイトのログにこういうものがあります。
「息子がドグラ・マグラという本を持ってます。裏表紙に”これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。” とあり、あらすじ的なことは書いてありません どんな内容なのでしょう? 息子は大丈夫でしょうか?」という質問に対して、回答者は「私も読んだことがありますが、精神に異常をきたしたりしておりません。」と何十回も同じ回答を繰り返すのです。この回答自体が、そのままこの本の内容を表しているかのようです。
(参照:yahoo知恵袋:息子が「ドグラ・マグラ」という本を持ってます)

また、この本はインターネット上で大変人気のある地位も持っています。私はよく「青空文庫」のアクセスランキングをチェックしているのですが、「ドグラ・マグラ」は常時トップ20位圏内に入っているからです。

「青空文庫」について説明しておくと、これは日本の近代文学を集めたインターネット上の図書館で、特に19世紀後半から20世紀の作家たち、すでに亡くなってからかなりの時間が経過している作家の作品が多く収録されています。「ドグラ・マグラ」もここで自由に読むことができます。

この作品は日本文学の中で特別な存在であり続けるでしょう。時には、アクセスランキングの上位10位にも入ることがありますが、私の知る限り日本の学校の教科書には掲載されていません。これも「ドグラ・マグラ」が他のランキング常連作品とは異なる点です。

そして、この作品は今なお多くの人々に影響を与え続けています。例えば、様々なアーティストの歌にもその影響が見られたり、作品にインスパイアされたさまざまな商品が作られたりしています。

「ドグラ・マグラ」は生き続けている作品です。さらに日本のみならず様々な言語にも翻訳され読まれるようになりました。フランス語、中国語、韓国語、そしてロシア語にも翻訳されました。redditでは有志により英語での翻訳も行われているようです。実際、すでに半分以上の部分が翻訳されているようで大変興味深いです。

日本三大奇書

「ドグラ・マグラ」は、「黒死館殺人事件」「虚無への供物」と共に、日本三大奇書とされています。「ドグラ・マグラ」と「黒死館殺人事件」は1935年に出版され、第三の奇書「虚無への供物」は1964年に出版されたので、30年以上の時差があります。(注釈:「黒死館殺人事件」の発表は1934年 新青年1934年4月号から12月号に連載として掲載された)

私の知る限り、「虚無への供物」が出版されたとき、その本の書評のなかに「第三の奇書」という言葉があったようです。”奇書”というのは、もとは中国で ”面白い・優れた書物” を指す言葉だったようですが、日本の”奇書”は、奇妙な変わった本という意味合いが強いです。さらに最近では第四、第五の奇書とされる本もあるようです。

私たちは機会あるごとにこの「三大奇書」について語り、それらの注釈や背景について常に言及し、ロシアの読者の間にも「三大奇書」に関する知識を広めようと努めています。実際、そのうちこれらの本すべてがロシア語に翻訳されるかもしれません。

私は2番目の本を翻訳した経験がありますが、その作業はとても苦痛で、作者が何を言いたいのかはっきりと分からない作品でした。大変難解な作家であり、その文体は自分の様々な分野についての知識を誇示するかのように思えました。それに比べると、彼は本当に素晴らしい著者で、非常に美しい作品を書いていると思います。

参加者からの質問

ここからは会場の皆さんからのご質問にお答えしたいと思います。質問のある方は手を挙げてください。


Q:「ドグラ・マグラ」に関する本や映画など、この本をより理解するためにお勧めのものはありますか?

A: あるとすれば、日本で作られた「ドグラ・マグラ」の映画でしょうか。その映画を撮った監督(注釈:松本俊夫)にとって最後の映画作品です。彼の最初の長編映画作品は、日本の前衛的なドキュメンタリー映画の古典作品といわれる「薔薇の葬列」です。
私は残念ながら最後まで見ることができませんでしたが、皆さんにはもしかしたら幸運が訪れるかもしれません。

「ドグラ・マグラ」の研究本や解説本は日本語圏で書かれたものは多数ありますが、ロシア語に翻訳されたものはなさそうです。英訳されたものは少しあるようです。

1996年には、日本の劇団により舞台版の「ドグラ・マグラ」が国外初公演作としてモスクワとサンクトペテルブルクで上演されたようです。(注釈:月蝕歌劇団による「ドグラ・マグラ」海外公演)

私は当時の新聞などを調べましたがそのことについての言及や批評は一切見つかりませんでした。劇場の図書館にも行きましたが、何も見つけられなかったです。
ただ、その公演を見たという或る人が、その時のパンフレットの掲載内容が非常によくない翻訳だったと書いているのを見つけたので、私はその人にコンタクトを試みてみましたが、Facebookで送ったメッセージは届かなかったようで返信はありませんでした。

他にも、作品が書かれた頃の日本の精神医学に関する知識はこの本の理解を深める材料になるかもしれません。
図書館やオンラインのアーカイブで、その時代の精神医学に関する研究を見てみることをお勧めします。数多くの研究があり、催眠術や様々な精神疾患について書かれています。私も探して読んでみましたが、残念ながら「ドグラ・マグラ」に直接関連付けられるような意見を表明しているものを見つけることはできませんでしたが。

唐代の伝説部分に関しては、中国の王朝時代に書かれた有名な演劇があり、それもまた「ドグラ・マグラ」の基になっていると思います。詩の形式で綴られてあり、死んで埋葬された女性を墓から掘り出し蘇生させるという内容です。これは英訳版を読んだことがありますが素晴らしい内容でした。


Q:「ドグラ・マグラ」の理論的な部分について質問があります。精神病遺伝についての内容や知識はどこから得たのでしょうか? 彼は(大学では)歴史学を専攻したようですが、完全には修了していません。彼はどのような資料を基に執筆したのでしょうか?

A: 夢野は九大医学部の教授たちから精神医学についての話を聞いていたようです、彼が教授に会見した記録もあります。それ以外も彼が精神医学についての専門的知識を得た人物がいたかもしれませんが、残念ながらそれらの関係性のすべてを明らかにすることは難しいです。

彼は精神遺伝について詳しく調べていたようで、ユングの初期著作の日本語訳も読んでいたようです。彼はこれらの翻訳に直接 または大学教授たちを通じて間接的に触れていたと思われます。もしかすると精神遺伝についてではなく、胚の形状に関連しているかもしれませんが。ユングだけでなくおそらくフロイトについても同様で、精神分析が日本に広まった1920年代に彼はそれに触れていたことでしょう。
彼はユングによる”夢は私たちの集合的無意識だ”という理論も知っていたと思いますが、この作品内にみられる夢についての彼の解釈にはユングの理論とは異なる部分も多く見られます。


Q:この作品における再帰性について、つまり「ドグラ・マグラ」の作中にドグラ・マグラが登場することや経文や探偵小説のような複数の話中話・時系列が存在すること、そして作者が意図的に読者に誤解を与えるような情報を提示していることについてお聞きしたいと思います。

A: 「ドグラ・マグラ」というタイトルの意味や解釈についての文献からも、読者を混乱させることが著者のお気に入りのトリックの一つだから、というのが理由として考えられます。

個人的には、「ドグラ・マグラ」は作品全体でみれば時間軸は明確で、いつ何が起きたのかがはっきりしている作品だと思います。主人公が11月20日に閉じ込められていることに注目することもできますが、それが全てではありません。ネタバレになるのでここでは詳しくは触れられませんが…。

再帰性についての答えは、作品を完読することで見つかるかもしれませんが、現時点ではお答えしないでおきたいと思います。

この作品で描かれる内容には、作者自身の投影があると思います。おそらく、母親と作者の関係も、作者と父親の関係、父権に対する抑圧への抵抗も「ドグラ・マグラ」の基礎を形成する要因となっていると考えられます。
この小説において、主人公は自身が何者であるかを知るために、自身の過去を必死に思い出そうとします。同時に作者自身もこの物語を書くことにより、物語の主人公と同じような行為をしていたのかもしれません。つまり、フロイト心理学的な手法ですが、この小説の執筆自体が夢野自身の精神分析療法的な行為だったとも考えることができます。


Q:VKontakte(=ロシアのソーシャル・ネットワーキング・サービス )のユーザーから寄せられた質問です。
原文の文体について夢野と類似する作家はいるか、他の有名な日本の作家たちとどのように異なるか、作者はどのような目的を追求し、どのような表現手段を使って望んだ効果を達成したのか、さらにロシア文学において「ドグラ・マグラ」に似た作品があるかどうか知りたいです。

A:最後の質問からお答えすると、残念ながら私自身が20〜30年代の探偵小説や幻想文学をあまり知らないため、文学作品の類似物を選ぶのは難しいです。また、ロシア文学は日本文学とは異なる発展を遂げているため、両者を比較するのも難しいと思います。ロシアにそのような”呪われた栄光”を持つ本があるかどうかは分かりません。

文体について類似する作家がいるかは何とも言えません。表現方法についてですが、特に主人公の視点で物語が語られている部分には三点リーダー「…」の多用が見られます。また、作品の各パートはそれぞれ独特の文体や形式で書かれており、例えば作中の調査報告書の部分は非常に科学的な言葉で本物の調書のように書かれています。もし日本の国会図書館のウェブサイトでその時代の精神医学の論文を見るならば、それらが非常によく似た文体で書かれていることが分かるでしょう。

また、夢野は自分の作品を声に出して読むことを意識して書いていたようです。YouTubeには彼の作品を朗読した動画が多数UPされているので、日本語での音読を実際に聴くことも可能です。「ドグラ・マグラ」の全編を朗読した約26時間ものオーディオブックもあり、その16~17時間あたりの部分では、日本の古文で書かれた部分(注釈:青黛山如月寺縁起)も聴くことができます。
参照:Youtube 【朗読】夢野久作『ドグラ・マグラ』

そういった文体や手法によって、夢野は読む人に対して、真に迫った、より説得力のある作品を作ろうとしていたのでしょう。同時にそれらの工夫が「ドグラ・マグラ」を非常に多層的な構造の作品にしているとも言えます。
また、福岡の方言が使われるなど地方色が豊かな点でも大変特異な作品です。その言葉は洗練されたものではありませんが、独特の雰囲気を形成することにも成功しています。
この作品は何十年も前に書かれた作品であるにもかかわらず、非古典的であり、非常にユニークな作品でありつづけると思います。


記事中のテキストはこちらより引用しました。
青空文庫版「ドグラ・マグラ」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2093.html

翻訳文の誤りをご指摘いただける方は、BlueSkyもしくはよりご連絡いただければさいわいです。