シュガーロード紀行 福岡博多#001 鴻臚館と大宰府官道

シュガーロード紀行 福岡博多#001 鴻臚館と大宰府官道


福岡城跡に登り鴻臚館跡を見に行く。

この場所の来歴を遡ると大変面白く、
古くは鴻臚館

関ヶ原の合戦後には筑前藩主となった黒田長政が福岡城を築城

明治に入ると県庁に、
その後陸軍駐屯地となって城の建物はほぼ解体

戦後は一時GHQが接収

1948年福岡で開催される国体のために駐屯地跡に競技場を建設、
翌年その一部を改修して平和台球場に

といった感じで、時代の変遷とともに様々なものがつくられてきた。


平和台球場も閉場・解体され、現在は遺構や石垣のみが残り一見すると只の原っぱ。
写真の黄色い屋根の建物がこのあと訪れる鴻臚館跡展示館。


鴻臚館は現代で云うところの迎賓館。海外からの使節団や貿易商のための宿泊施設であり歓待の場だった。京・難波・筑紫の3か所にあったとの記録が残っているが、実際に遺構が発見されて存在が確認されているのはこの筑紫鴻臚館だけらしい。

本格的な発掘作業は1999年の平和台球場解体工事を契機に始まり、それ以降現在も調査が続けられてる。

発掘物の保存に使われていると思しき倉庫の柵には鴻臚館・福岡城にゆかりのある人々を紹介する看板が何枚か設置してある。その中に鴻臚館発見の最大の功労者、中山平次郎博士の紹介もあった。

中山平次郎博士は、鴻臚館が福岡城跡内にあったことを特定した人物です。
-中略-
病理学者でありながら考古学に強い関心を持っていた中山博士は、精力的に福岡の遺構について研究・調査を行います。そのころ、鴻臚館(古くは筑紫館 つくしのむろつみ と呼ばれていた)の所在地は、博多部の官内町(現在の博多区中呉服町付近)といわれていましたが、中山博士は、万葉集の「筑紫館に至り、遥かに本郷(もとつくに)を望み凄愴(いた)みて作る歌四首」を検討したうえで、通説は誤っていると指摘しました。

四首は「志賀島が見える場所」「波の音が聞こえる場所」「ひぐらしがなく場所」などの条件にあう場所で読まれたはずだが、官内町ではその条件に当てはまらないと考えたのです。その条件に合う場所を自ら探し出し「福岡城跡の位置より他にない」と結論づけています。

当時の福岡城跡は陸軍歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、招魂祭の日だけは立ち入りが許されていました。中山博士はこの日を利用して営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確認を持ちました。
-中略-
戦後、昭和24年(1949年)に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年(1987年)の外野席改修工事の際、ついに鴻臚館の遺跡が発見されました。中山博士の予見通り、ここに鴻臚館が存在したことが確定、現在も発掘調査が続いているのです。…

中山博士は昭和31年に亡くなるので鴻臚館の存在が証明されたのはそれから更に約30年を要したことになる。
考古学の専門家ではなく医大の教授が遺跡の場所を確定したのも意外だし、全容が明らかになりだしたのもついニ、三十年前というのも意外。


中山博士が手掛かりにした万葉集の歌の一つ
”今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴きぬ” は歌碑となって城跡内に建てられている。


鴻臚館跡展示館は発掘された鴻臚館南館跡の上を覆うように建てられていて、遺構や出土品を間近で見学できるようになっている。


建物内部には柱の跡をもとに宿坊の建物も復元されている。

ここから出土したものは建物に使われていた瓦、交易品とみられるさまざまな産地の陶磁器(遠くはペルシア産のものも)、当時の食器、木簡など様々。
鴻臚館周辺の当時の様子を再現した図やCG映像も観ることができるが、海岸線が現在より内陸部にあり館のすぐそばに海が広がっていたことがわかる。


これは館内にあった展示パネル。

鴻臚館から大宰府までは、上図のように、ほぼ直線状に整備された官道で結ばれていた。しかもその道幅は約7~10m以上もあり、近年この官道の跡も発掘されてその存在が確認されている。
(「大宰府に続く官道か 福岡の史跡で側溝跡出土 」日本経済新聞 2017/03/01)

外国からの使節が通る道だったので、国威を示すために一層立派な道路にしたとも考えられている。

道幅もあまり広くなく、さらに城下町やその周辺では意図的に曲がり角を多用したり見通しの悪い作りにしていた江戸時代の街道とはとても対照的に思える。

(来訪日:2018/09/23)