シュガーロード紀行 唐津#003 唐津城

シュガーロード紀行 唐津#003 唐津城

歴代唐津藩藩主の居城が唐津城。

豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役の際、現在の唐津市鎮西町に名護屋城が建造されたが、唐津城はその名護屋城の解体建材を再利用して初代藩主 寺沢広高が造ったと伝わっている。

まず寺沢氏が唐津の領主だった頃の出来事を年代順に簡単にまとめてみたい。

1591(天正19年)10月 肥前名護屋城の普請開始
1592(天正20年)4月 文禄の役はじまる
1595(文禄4年) 寺沢広高が唐津の領主になる
1597(慶長2年)7月 慶長の役はじまる
1598(慶長3年)8月 秀吉の死去により日本軍の撤退開始
1600(慶長5年)9月 関ヶ原の戦いに寺沢広高は東軍で参加、天草領4万石を加増される
1602(慶長7年)唐津城の本格的な築城を開始
1608(慶長13年)唐津城完成
1615(慶長20年)大坂夏の陣により豊臣氏滅亡
1633(寛永10年)寺沢広高死去、71歳
1637(寛永14年)10月 寺沢氏の領地天草を含む地域で「島原・天草の乱」勃発
1638(寛永15年)2月 「島原・天草の乱」鎮圧、寺沢堅高から天草領が没収される
1647(正保4年)11月 寺沢堅高自死、嗣子無しの為寺沢家は断絶、唐津藩改易

寺沢広高が名護屋城の建材を再利用して唐津城を作ったのは、地理的な距離の近さもあり建材を運搬しやすかったのもあるが名護屋城の築城時に彼が普請を担当していたから、というのも理由の一つにあったかもしれない。

築城の際、広高は元は地続きだった満島山(この上に唐津城は築かれる)を切り離して、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流れを変更している。


造営時の唐津城に天守閣が築かれたのかどうかははっきりした記録が残っていない。
現在あるのは昭和40年代に建造された模擬天守。内部には唐津に関する史料が展示してある。

最上階は展望室になっていて唐津市街が一望できる。
これは唐津湾に浮かぶ高島。近年有名になった宝当神社がある。


虹の松原も端まで見渡せる。

この虹の松原を作ったのも寺沢広高。
広高は新田開発なども積極的に行い、海際の耕地を砂浜の砂と風から守るために松を植えたのが始まりと言われる。


松は江戸時代を通して藩の管理下におかれて保護され、結果全長4km以上の広大な松林となり、日本三大松原の一つとしても数えられる景勝地となった。
松原沿いの砂浜は夏になると海水浴場としても賑わう。



唐津藩は寺沢氏の後も何度も領主が変わった。
松平氏、水野氏など江戸幕府の中枢も担った譜代大名が治めていた時期もある。

のちに老中となり天保の改革を行う水野忠邦も唐津藩主だった時期がある。
忠邦は唐津から浜松に転出するが、これは出世のための転封だったらしい。

水野氏の後に唐津に入ったのが小笠原氏で、その統治は明治維新まで続く。
小笠原氏は幕府への忠誠心が大変篤く戊辰戦争では最後の激戦地函館まで幕府軍として戦った。(また、あまり知られていないことだが、末期の新選組には唐津藩士が多く参加していたらしい。この件については機会を見つけて詳しく調べてみたいと思う。)

(来訪日:2018/07/06)