シュガーロード紀行 福岡博多#003 豊臣秀吉と神屋宗湛・太閤町割・利休釜掛之松

シュガーロード紀行 福岡博多#003 豊臣秀吉と神屋宗湛・太閤町割・利休釜掛之松

博多は、戦国時代にはその繁栄ゆえに我がものにしようとする周辺の諸大名の間で争奪戦が繰り広げられ、結果 焼け野原となってしまう。

荒廃した博多が再生される契機となったのが、九州平定のためにやってきた豊臣秀吉が黒田官兵衛らに命じて行った区画整備「太閤町割」、その際に資金の援助を行ったのが貿易で巨財をなした豪商 神屋宗湛だった。

神屋宗湛といえば、福岡市天神のヒューリック天神ビルの中庭に彼の茶室の庭が移築・復元されている。

宗湛の茶室にも秀吉は訪れたらしい。


東区馬出にある九州大学医学部の構内にも、秀吉や宗湛らが茶を楽しんだ場所が残っている。

「利休釜掛之松」という名前で、ここにも説明書きの看板が建てられていた。

天正十五年(1587年)、九州平定を終え筥崎宮に滞在した豊臣秀吉は、小寺休夢(黒田官兵衛の叔父)らと和歌を詠じ、茶人の千利休や博多の豪商神屋宗湛らと茶会を催しました。

その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖を吊して雲竜の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯を沸かしたと伝えられています。

「白砂の上に散り敷いた松葉を集めて」とある通り、昔このあたりは海沿いの砂地で松林が広がっていたと考えられる。

↑これも同じ看板にあった「宗湛献茶の図」。

なお、この頃の茶会では、果物や餅、根菜・茸類のお煮しめなどがお茶のお供だった。お茶の席でお菓子が楽しまれるようになるのはもう少し先のこと。

松の下には小さな井戸の跡らしきものもある。
この時利休たちが松の下で行った茶会が、のちに野外で茶を楽しむ「野点(のだて)」の始まりになったらしい。