「平戸松浦家伝来の伊能図」展

平戸へ旅行した際、松浦史料博物館を見学した。
シュガーロード紀行 平戸#002 松浦史料博物館

そこではじめて松浦家に伝わる伊能図があることや、伊能忠敬と九代目藩主 松浦清(静山)・十代目藩主 松浦熈との間に交流があったことを知った。
その時に観たのは、平戸全土を描いた伊能図だった。

今年がちょうど忠敬の没後200年にあたる年でもあることから、九州国立博物館で松浦家の所蔵する伊能図の特別展示が行われるとのことで観に行くことにした。


博物館のロビーにも巨大な垂れ幕が掲げられている。

この日は九博の研究員の方による約1時間のミュージアムトークも開催されたので、それもあわせて聴講した。
以下、特に印象に残った内容などをまとめてみたい。

●伊能忠敬が天文学を学び始めたのは息子に家督を譲った後の49歳から、そして日本全国の測量の旅を開始したのは55歳から。
まずこの年齢に驚く。当時の感覚でいえばもうご隠居世代、老年とみなされるような年齢から勉強を始め、そこから亡くなるまでの約25年間でほぼ日本全国を測量し、地図を作り上げたことになる。

●忠敬が測量を始めたのは、「地球の大きさがどれくらいなのか知りたい」と思ったのがきっかけだったそう。
子午線1度に相当する正確な距離を計測出来れば、そこから地球の大きさを算出することが出来る。その計測をしたいがために、地図作成を名目に、当時一般人の立ち入りが禁じられていた蝦夷地へ行こうとしたのが測量の旅の始まりだったそう。これはちょっと意外だった。

●忠敬が作成した日本地図と現在の日本地図を重ね合わせて比較してみると、関東より西の地域はほぼぴったりと重なり合うが、それより東の地域は北に行くほどずれが生じている。
これは、北海道や東北が初期の段階で測量が行われた地域であり、その頃は測量がやや不慣れだったり未熟だったために誤差が生じていると考えられる。

●忠敬の測量が年を追うごとに精度を高めていったことは、子午線1度にあたる距離の計測・算出からもうかがい知ることが出来る。
測量を始めて間もない初期に算出した距離は、現代の科学で計測したデータの数値と比較してみると、約12%の誤差があった。しかしそれから数年後に算出した距離は、その誤差が約0.4%まで縮小し、現代のデータとほぼ変わらない数値となっている。

●伊能図は、実測したデータ(距離と角度)を基に位置を算出し、紙の上に針を打ち、その点を結んでいくことで描かれている。なので、よく見ると今でも針穴の跡を確認できる。
針穴の跡は忠敬たち測量隊が、実際にその地を歩き、測量した、足どりそのものを表すものでもある。

●実は、忠敬が作成した日本の全土図(大日本沿海輿地全図=正本)は現存していない。
(幕府に献上したものは明治期に焼失、伊能家にあった控も関東大震災で焼失している。)
現在「伊能図」と呼ばれ、私たちが目にすることのできるものは、部分的に残された「副本」、江戸~明治期に正本・副本から写しをとって作られた「写本」と呼ばれるものである。


忠敬らの一行が平戸での測量を行った際には、藩主の熈が測量の様子をみるために自ら立ち会ったりもしたそう。

地図が完成したら譲ってくれるようにとの約束が松浦家と忠敬の間で交わされていたが、忠敬は地図が完成する前に亡くなってしまう。そのため、地図は後に残された忠敬の弟子たちにより作成され、松浦家に納められた。


これまで何度か目にしたことはあった伊能図だが、こんなに多くの伊能図を一度に、かつ つぶさに見たことはなかった。
ミュージアムトークでも語られていたが、改めて見てみると、地図として精度が高いのは勿論だけど、加えて色遣いや線や記号の書き込み方に絵画的な美しさもある。

これは会場で頂いたパンフレット。四つ折りのA4サイズだが、

広げると、なんと裏面一面に九州一円図が印刷されている。
これはすごい。
海岸線を辿ったり、びっしりと書き込まれた地名を見るのも楽しい。

あまり買うことのない図録も、今回はしっかり買ってしまった。

図録には部分的にではあるが伊能図の拡大写真も掲載されている。現在の福岡市とその周辺にあたる部分の拡大図も載っていたが、なじみのある地名がずらりと記載されている。
二百年以上前、ここも確かに忠敬の測量隊一行が訪れていたのかと思うと感慨深い。


伊能図展と同時開催で「太宰府研究の歩み」という企画展示も行われていたので観てみたが、この展示物の中にも松浦家由来のものがあった。

江戸時代には、文化人の間で太宰府旅行が流行したらしい。
(当時はかつての政庁跡は畑に埋もれていた状態で、もちろん整備や史跡の保存活動などは行われていない。)在りし日の”遠の朝廷”を偲びながら瓦を拾ったりする人もいた。

司馬江漢も太宰府を訪れ、その際に拾った瓦の破片を江戸に持ち帰っている。
その瓦の破片はこのあと司馬江漢から松浦清山に贈られ、詞書をつけられて松浦家に伝わることになる。

また、清山自身も太宰府を訪れ、自ら瓦を採取して持ち帰っている。

巡りめぐって何百年後かに、再び大宰府の地に戻ってきて、こうやって博物館に展示されているのかと思うと何だか面白い。

(来訪日:2018/12/08)

 


特集展示:伊能忠敬没後200年記念「平戸松浦家伝来の伊能図」

特集展示:大宰府史跡発掘50年記念「大宰府研究の歩み」展

シュガーロード紀行 飯塚#006 さかえ屋のすくのかめ

飯塚の菓子店、千鳥屋の次に訪れたのはさかえ屋の飯塚本店。

創業は1949年。
“さかえ屋”という店名は、実は千鳥屋本家のそばにあった栄橋に由来しているそう。


この日本家屋は、昔おかき工場として使われていた建物を移築したもの。現在は喫茶スペースとギャラリーになっていて、お菓子や飲み物を楽しんだり休憩できるようになっている。写真左奥に見えているのが店舗。


店舗の前にはシュガーロードの由来を記した看板もあった。

お店に入ると、色々な種類の和菓子、洋菓子、さらにアイスなどたくさんの商品が並んでいる。
ケーキ類の並んだショーケースの中に、その名も「シュガーロードシュー」というシュークリームがあるのを発見して思わず買ってしまった。

すくのかめ

さかえ屋で買ってきたお菓子の実食、まずはすくのかめ。

今は「なんばん往来」がいち推し商品のようだが、私が小さい頃は、さかえ屋といえばすくのかめだった。
このお菓子の製造開始は1957年、名前の由来は、弥生時代の遺跡から出土した須玖式土器らしい。

かめの形の最中のなかには、餡と求肥が入っている。
定番の味は小豆と抹茶の2種、季節によって限定商品も発売されるらしい。今回は抹茶と柚子を購入した。

抹茶は見た目も美しい緑色の抹茶餡入り、期間限定の柚子味には細かく刻んだ柚子の皮も入っていてさわやかな風味が楽しめた。

シュガーロードシュー


名前に釣られて買ってしまったこの商品、最近作られるようになったものだと思うが、洋菓子製造にも力を入れているさかえ屋さんなだけあって美味しいシュークリームだった。

皮はしっかり固め、大きな粒状の砂糖がまぶして焼いてあるのでザクザクした食感で、バニラの黒い粒々の入ったカスタードが入っている。生菓子なので限られた店舗だけで取り扱っている商品かもしれない。

(来訪日:2018/11/25)


シュガーロード紀行 飯塚#005 千鳥屋本家の千鳥饅頭・千鳥サブレ

飯塚とお菓子

飯塚で様々なお菓子が作られるようになるのは、炭鉱業が盛んになる明治~大正期。

工場見学に行ったひよ子の吉野堂も、明治30年に飯塚で開業、ひよ子を売り出したのは大正元年のこと。チロルチョコで知られる松尾製菓が現在の田川市で製菓業を開業したのも明治36年だった。)

炭鉱で過酷な肉体労働をする人達に、体力を補い疲れを癒すために甘いお菓子が大変好まれたことも大きく関連しているだろう。

その頃の筑豊炭田には150以上の炭鉱があり、日本全国そして外地からもたくさんの炭鉱労働者が集まっていた。

また、飯塚も長崎街道の宿場町=砂糖やお菓子その製法の通り道だったので、お菓子の一大生産地となる素地が近代以前から既にあったことも大きく影響していると思う。

筑豊炭田の石炭生産量と人口が右肩上がりで増えるにつれて、お菓子の消費量も一層高まり、飯塚だけでなく筑豊一帯で製菓業はますます盛んになっていく。

千鳥屋本家

飯塚の老舗のお菓子屋さんを訪れてみたい。一軒目は旧伊藤邸に電話番号の貼り紙があった千鳥屋。

白壁の純和風の店舗がとても素敵。
金文字の看板にも老舗ならではの重厚感がある。

お店の横には、橋の欄干らしきものがあった。

らんかんに みだれ飛ぶかな 千鳥跡
原田青夜こと利一郎

飯塚川にかかっていた栄橋は昭和初期に造られ千鳥屋本店横の橋のらんかん(親柱)には、上部に銅板装飾の千鳥のマークが刻まれております。
平成二十三年四月

今はなくなっているが、昔はここに飯塚川という川があり、橋がかかっていたらしい。

千鳥屋の歴史

天正十八年(1590)
九州北部を支配していた龍造寺隆信の子・政家が病弱のため、家臣の鍋島直茂(鍋島藩祖)に領地を譲り、太俣郷(現・佐賀県佐賀郡久保田町)に隠居。家臣の原田家も政家にしたがって移住。やがて武家の内職として酒饅頭などの菓子を作り、生計を立てる。

寛永七年(1630)
原田家が佐賀県佐賀郡久保田町に「松月堂」の屋号で本格的に丸ボーロ、カステラを中心としたお菓子屋を始める。



昭和二年(1927)
福岡県嘉穂郡飯塚町住吉の中央市場(現・飯塚市本町の永楽通商店街)入り口に松月堂の飯塚支店として「千鳥屋」を開店。千鳥饅頭、丸ボーロ、カステラの三品を専門に製造販売。

千鳥屋本家 沿革 より-

千鳥屋のHPを見ると、ご先祖は戦国大名 龍造寺家に仕えるお武家さんだったとのこと。千鳥屋の前身の松月堂の創業は寛永七年(1630)、ということは、単純計算で今年は創業389年目ということになる。

お店の歴史の古さにも驚くが、もとは佐賀のお菓子屋さんだったことも意外だった。久保田は以前訪れた小城や牛津の隣にあり、そこも長崎街道が通っていた場所。

松月堂が飯塚に支店を出した昭和2年頃は、筑豊炭田が日本最大規模の炭田となり、ちょうど最盛期を迎えていた時期にあたる。その後、松月堂は昭和14年に閉じられ、以後飯塚の千鳥屋が本店となった。
(確かなことは分からないのであくまで推測だが、本拠地を移すほどに当時の飯塚での売上げが大きかったのかもしれない。)

なお現在は、飯塚が本拠地のこの千鳥屋本家と、福岡市博多区が本拠地の千鳥饅頭総本舗の2社に分かれている模様。

この飯塚の紀行を行うまで私も千鳥屋が2社あることに気付いていなかったが、現在福岡で流通している千鳥饅頭も実は2種類あるということになる…。

店内には和菓子の他に洋菓子(特に焼き菓子)も色々並んでいる。
チロリアンもこの店の看板商品。カステラ、丸ボーロも今も売られている。

ここでは千鳥饅頭などを購入した。

千鳥屋本家

千鳥饅頭

飯塚で買ってきたお菓子を試食してみたい。まずは千鳥饅頭。

創業三百七十余年来、守り続ける伝統のカステラと丸ボーロから生まれた千鳥屋の代表菓です。

口ほどけのよいやわらかな舌ざわりの白餡と風味よい焼き皮の上品な甘さ。凛とした姿は、時代を越えて皆様に愛され続けております。
千鳥屋HP より-


お饅頭には千鳥の焼き印が捺されている。皮はやや凹凸がある見た目で、特に皮の表面部分はしっとり感よりサクッと感がある。
いわれてみれば確かに丸ぼうろにも通じる食感があるような…。白あんはなめらかでやさしい甘さ。

この千鳥饅頭にも言えることだが、長い間愛され続けるお菓子にはシンプルなのに飽きのこない味わいがあると思う。

千鳥サブレ


店頭で見つけたので千鳥饅頭と一緒に買った商品。
千鳥屋にサブレがあるのは知らなかった。商品名も筆書きで包装も何だか和風の趣き。


このサブレは何と言っても形がかわいい。さっくりと焼き上げられていて素朴な味わいだった。

(来訪日:2018/11/25)


シュガーロード紀行 飯塚#004 飯塚の名のおこり 曩祖八幡宮・飯の山

飯塚の地名の由来については曩祖八幡宮で触れたが、地名の起こりとなったもう一つの場所とされるのが「飯(いい)の山」。
先ほど通っってきたアーケード街の近所にあるそうなので見に行ってみたいと思う。

途中、明正寺というお寺の前には「勢屯り跡」の石碑が建っている。

参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち先触(さきふれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの整列を整えたところ。
なお明正寺には享保十四年(一七二九)八代将軍吉宗に献上された象が飯塚宿を通った記録があります。

勢屯り跡を過ぎ、もう少し歩いて小高い丘の坂をのぼる。

ここが飯の山、確かにご飯を盛ったようなこんもりとした形をしている(ような気がする)。
大きな山かと思っていたが、想像していたよりかわいらしいサイズ。

石碑も建てられている。

史跡 飯の山

昔、明星寺という寺の造営が行われたとき、その開堂供養のまつりに、飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に集めたところ、飯の塚ができたので、それから飯塚と呼ぶようになったといいます。
また、神功皇后が「いつかまた逢おう」と将兵との別れを惜しまれたのが、地名の起こりであるという話と共に「飯塚」の地名の起源を説明する伝説の地であります。
ここはまた江戸時代、飯塚宿の上茶屋(本陣)のあったところでもあります。

-飯塚市教育委員会-

“ご飯の塚ができた”という伝説は、この土地が昔からお米がたくさん実る豊かな土地だったことを如実に表しているのではないかと思う。

実際、飯塚では立岩遺跡という弥生時代の遺跡も発見されていたり、飯塚とその周辺地域には数多くの古墳も残っているらしい。

先ほどの説明文にもある通り、この飯の山と向かい合うところには御茶屋(本陣)跡を示す石碑も建てられている。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#003 飯塚市街に残る長崎街道の面影

旧伊藤邸のある幸袋から、長崎街道を辿って飯塚宿(今の飯塚市中心部)方面へ向かう。


このあたりは、現在の国道220号線と一部重なりつつ並走するような道筋となる。


昔のままの道幅の通りには、古い町並みが残っていた。

ブロック塀と同化して、気づかずにうっかり通り過ぎそうになったが、飯塚宿に入る手前には「オランダ屋敷跡」と記された石碑も立ってた。長崎から江戸へ向かったケンペルやシーボルトはこのあたりに泊まったのだろう。

いまは駐車場や住宅地になっていて、この石碑以外には屋敷の痕跡は何も残っていない。

曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)

先ほどのオランダ屋敷跡の石碑から少し歩くと、曩祖八幡宮の前に出る。
道に面して大きな鳥居が並んでいるのが目を惹く。

刻まれた文字を読むと、今建っている鳥居は明治~大正の頃に建てられたものだが、江戸時代の飯塚宿とその周辺を描いた絵図を見ると、当時もまったく同じように街道に面して鳥居が並んで建っていたことがわかる。


御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰 そして天神地祇。曩祖八幡宮のHPを見ると、神社の歴史についてこのように書かれています。

神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。
このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。
創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。

神社歴史 | 曩祖八幡宮 

以前訪れた嬉野の地名の由来にも神功皇后の伝説が関連していたが、飯塚もそうだったことを知る。北部九州には他にも神功皇后に由来する地名が数多く存在している。(宇美・筥松・箱崎など)

市街に残る長崎街道の痕跡

曩祖八幡宮からまた少し歩くと、「構へ口跡」と書かれた石碑が建っている。
構へ口というのは宿場町の入り口のこと。

市街中心にある本町商店街のアーケードの通りは、そのまま飯塚宿のあった場所と重なる。
長崎の大村でも街道の宿場町がアーケード街として残っていた。

「長崎街道 飯塚宿」の看板もある。

黒ポストというものもあった。
後ろに架かっている説明文によると、九州で初めて郵便制度が整備された区間も長崎街道沿いだったことがわかる。

アーケードを抜けたところには長崎街道の案内図もある。

飯塚宿があった場所は、のちの時代に急速に市街化が進んだために建物などは殆ど残っていないが、近年の整備により何処に何があったかを示す石碑は数多く建てられている。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#002 旧 伊藤伝右衛門邸

飯塚でまず最初に訪れるのは、筑豊の炭鉱王として知られた伊藤伝右衛門の旧宅。
西鉄バスでは天神から旧伊藤邸行きのバスが運行されている。

行先表示も「幸袋・伊藤邸」。(幸袋は伊藤邸の所在地名)
バスに揺られること約1時間、終点は旧伊藤邸のすぐそばなので降りて徒歩1~2分でお屋敷の前に到着する。


こちらが正門。
長屋門と呼ばれる門の両脇部分がお屋敷の使用人の住居スペースになっている作り。
この門は現在の福岡市天神の福岡銀行本店付近にあった伝右衛門の別邸(赤銅御殿)から移築したとのこと。


門の看板は麻生太郎氏が総理大臣だった頃に揮毫したものらしい。なお、麻生氏の家系も石炭産業で大きな財を成した筑豊御三家(麻生家・貝島家・安川家)のひとつである。


伊藤邸は敷地面積約2300坪、部屋数25、複数の蔵などもあり、屋敷の前には美しい日本庭園が広がる。

伝右衛門の死後 屋敷は人手に渡るが、個人でこの広大な邸宅と庭園を存続させることは容易ではなく、一度は取り壊しを検討されたこともあった。

その際に存続を求める市民運動がおこり、現在では飯塚市に譲渡されて保存と管理が行われているとのこと。

暖炉もある洋風の応接間。テーブルに飾られているのは伝右衛門と柳原白蓮の写真。

柳原白蓮は大正三美人の一人としても数えられた美貌の歌人。
伝右衛門は妻となった白蓮を迎え入れるために、この邸宅に贅をつくした改修を施した。白蓮は皇室とも血縁関係がある生まれ(大正天皇の従妹にあたる)だったので、このお屋敷の中には皇族のみが使うことのできる特別な装飾も施されている。


しかし、もともとが25歳も歳の差がある結婚。二人の気持ちがすれ違うことも多く、最後は白蓮の駆け落ちにより結婚生活は約10年で破綻する。


数年前、朝のTVドラマにも伝右衛門と白蓮が登場し、その際にこの伊藤邸も注目を集め来場者が急増したことがニュースになっていた。実際に視聴していないので詳細は知らないが、ドラマでは伝右衛門はあまり好意的な印象では描かれていなかったらしい。

確かに白蓮にとっては良き夫ではなかったかもしれないが、彼は筑豊の炭鉱業を振興させただけではなく、福岡銀行の設立を実現させたり、地域一帯の学校に寄付を行い職工学校や女学校を設立したり、農園を経営し作物の栽培を研究させたりと、さまざまな面で地域に貢献した人物でもあった。

また、太宰府天満宮や宮地嶽神社には、伝右衛門の奉納した鳥居が今も残っている。

お台所の近く、電話室のあった場所でこういうものをみつけた。

電話室(お貼りください)
御菓子司 飯塚千鳥屋
電 八三一

白い矢印がさす少し上に何やら黒ずんだ紙片が貼ってあるが、手前右の写真はその紙片を写したものらしい。

お屋敷でお菓子が入用なときには千鳥屋に電話をかけて注文していたのだろう。伝右衛門や白蓮も千鳥屋のお菓子をよく口にしていたのかもしれない。
思いがけなく菓子に関連する遺物も発見できて嬉しくなった。


ところで、この伊藤邸は長崎街道沿いに建っている。
長屋門の柵にも「長崎街道」と書かれた札が取り付けてあった。

周囲には白壁の家が並んでいて、昔の街道の面影を残している。


壁にこんな繊細な細工を施した古いお家もあった。左官さんが漆喰に鏝を使って描くもので「鏝絵」というらしい。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#001 ひよ子の工場見学に行く

以前からずっと気になっていた飯塚市穂波にあるひよ子の工場の見学。
この紀行もちょうど飯塚まで進んできたこともあり、この機会に行ってみることにした。

工場見学の概要はひよ子のHP に記載されている。
電話で直接申し込むが、この工場見学は常に人気らしく1~2ケ月くらい先でないと予約が取れない。
私の場合も9月に申し込みをしたが、見学の予約が取れたのは11月の日程だった。


工場見学当日。よく晴れていて11月と思えないほど気温も高い。
午前9時台、福北ゆたか線で博多から工場最寄り駅の天道まで向かう。(天道は「てんとう」と読む。)

天道駅から工場までは徒歩で向かう。
しばらく歩くと穂波川が現れるが、この川の向こうにひよ子の穂波工場が見えてくる。

GoogleMapのルート検索では約15分と表示されていたが、実際にはもうちょっとかかった。

工場に到着。建物も大きいが看板も大きい。

受付を済ませ、消毒液で手を消毒していよいよ工場見学が始まる。
1グループ約20人ほどで、案内役の社員さんの解説を聞きながら工場内の各工程をガラス窓越しに見学して行く。


この工場では、ほぼ全工程をオートメーション化して主にひよ子とひよこサブレ―の生産が行われている。

今回の見学で最大の発見だったのは、「ひよ子はおしりから作られる」ということ。

餡を生地で包んだ次の工程でひよこ形に成形され、おしり側を進行方向に向けてレーンの上を進んで行く。おしりから進んでいくのは、頭を前にするよりもこのほうが安定し、途中で倒れたりしにくいためらしい。

オーブンに入っていくのもおしりから。
たくさんのひよ子が行進するように進んでいくさまは壮観。

15分ほどかけて大きなオーブンの中を通過すると、ほどよく焼きあがって出てくる。
目を入れ大きな螺旋状の装置の中でゆっくり冷まして、専用の機械で手早く1個づつ紙に包まれる。

最終工程の箱に詰める作業は人の手で。

この工場でつくられたひよ子は、このあと直営店をはじめ九州一円に出荷されていく。


工場見学が終了すると、できたてのひよ子を試食することが出来る。

工場から直接持ってきたひよ子を社員さんが見学者に配ってくれる。
手のひらに載せるとまだあたたかいので、できたてというより「生まれたて」と言いたくなる。

できたてのひよ子は皮の部分がちょっとサクッとした食感ですごく美味しかった。
普段食べるひよ子は製造後数日経って皮と餡がしっとりなじんだものなので、できたてひよ子はまさにここでしか食べられない。


工場には直売所も併設されている。

この直売所は昭和初期の飯塚本店を模したものだそう。よく見ると電話番号も七四五(ひよこ)番になっている。商品を選んでいる間も、常連らしい地元のお客さんが何人も来店して、1箱2箱とひよ子を買っていく。

これも直売所で売られていたシャーベット甘酒。
気温が高かった日だったこともあり、冷たいものがおいしそうに感じられて買ってみた。

直売所前に茶店風の休憩スペースがあったので、そこでさっそく頂く。
甘酒のシャーベットは初めて食べたが、甘みも優しくさっぱりとした食感だった。


こちらが直売所で買ってきたお菓子。バラ売りされている商品も多かったので色々買ってみた。

「ひよこれいと」や「ピィナンシェ」はネーミングにやや無理矢理感もあるが、商品の名前も形もまさにひよこ尽くしといった感じ。

今回は季節限定で「栗ひよ子」が販売されていたので、そちらを購入した。

製造工程を見た後だと、ひよ子の姿にも一層愛着めいた感情がわいてくる。

皮の生地には九州産小麦、栗は熊本産和栗が使用されている。白餡に栗が加わるとクリーミーさが一段と増す感じだった。


工場見学中に見た会社の歴史に関する展示や、社員さんによるひよ子についての解説も興味深い内容だった。

現在の株式会社ひよ子は、明治に飯塚で創業した吉野堂というお菓子屋がはじまりにあたる。
ひよ子の会社サイトを見るとこういう記述があった。

福岡藩・藩祖黒田官兵衛公が福岡入りする際に、八木山峠の石坂茶屋に逗留し、自ら宰領された「博多往還」。
この折の協力とおもてなしによりお褒めの言葉とともに石坂の姓を頂いたと伝えられています。

八木山の地で蒔かれたおもてなしの芽は、初代・石坂直吉が飯塚本町に菓子舗吉野堂を新たに開店することにより花開いたと言えるでしょう。

「菓子舗𠮷野堂創業120年の歩み」より引用

上記の文中に出てきた博多往還・八木山峠・飯塚の位置関係を地図上で見てみるとこうなる。

博多往還は日田街道とも呼ばれ、博多と天領日田をつないだ街道。
博多往還の途中にあるのが八木山峠、その八木山峠を越えた先、博多往還と長崎街道がちょうど交差する位置にあったのが飯塚だった。

今をさかのぼること400年以上前から、道がむすんだ縁が契機となって、石坂家の歴史が始まったことになる。

また、ひよ子が飯塚銘菓から福岡銘菓に、さらに東京銘菓になってゆく経緯にも、交通網の発達が大きく関連している。

ひよ子が福岡 天神の一等地に店舗を開店したのが昭和32年、その前年の昭和31年は東京ー博多間を走る特急「あさかぜ」が運行を開始した年だった。
そして1回目の東京オリンピックが開催され東海道新幹線が走り始めた昭和39年には関東に工場を建設している。

これまでになかった大きな人の流れが発生し、お土産の需要も高まるタイミングをうまくつかまえて福岡・東京の定番みやげとなっていったのが面白い。

こういった背景を知ると、やはりお菓子はその地域のもつ特徴や歴史、経済や物流などと深く関係しているのだな、と改めて思う。

ひよ子の歴史は、会社のHP上でも読むことが出来る。
吉野堂物語 http://www.hiyoko.co.jp/yoshinodo/index.html

(来訪日:2018/11/10)

「九州大学箱崎キャンパス近代建築物ツアー」に行く

10月上旬、九州大学箱崎キャンパスの建築物見学ツアーが行われることを知った。

100年の歴史を持つ箱崎キャンパス内には、数多くの近代建築物が使用されてきました。
それらの建築物は、歴史を伝える貴重な遺産であることから、九州大学では、学術的に全ての近代建築物の記録保存を行い、既存容姿のまま保存・活用を行っていく建築物と、劣化が著しく、構造的に安全性に問題が認められる建築物については、後世に残せる復元可能な記録保存を行った上で解体等を行う方針としています。
今回、近々解体する閉鎖中の建築物の見学ツアーを開催し、解体前に、皆さまにも広く公開する機会を設けるものです。

九州大学統合移転推進部統合移転推進課
九州大学HPより

解体前の建物を見学できるほぼ最後のチャンスだろうということで、見学ツアーに参加することにした。


ツアー当日。

大学の正門を観に行ってみる。
門も開けられ守衛さんもいたが、今日はここからの出入りは出来ませんとのこと。門の向こうの敷地には工事のフェンスが建てられていて中は見えない。
他にいくつかある出入口も閉じられるか、工事関係車両用の出入り口になっていた。

この日通れる出入口は理系・文系エリアの間の道路沿いにある中門だけ。
そこから構内に入り、集合場所の旧中央図書館エントランスホール前で受付を済ませて、貸出のインカムと資料を受け取る。

資料はこの日見学する建物の解説や詳細なデータ、見取り図がまとめてある。無料のツアーなのにこんな丁寧な資料まで頂いてしまった。この資料は大事にとっておこうと思う。

今回のツアーは、福岡建築ファウンデーション・箱崎九大跡地ファン倶楽部の方による解説をインカムで聞きながら農学部エリアの建物を見学していく。

(以下 各建物についての文章はこの時の解説と頂いた資料を参照して記載しています。)


農学部6号館(農芸化学教室)

昭和13年(1938)建造。

戦前に造られた鉄筋コンクリート建築の建物。かなり大きい。水平に整然と並ぶ大きな窓が印象的な外観。解説によると、これはインターナショナルスタイルという当時の先鋭的な建築様式を取り入れたものだったそう。

外壁が薄黒いのは、太平洋戦争の際に空襲を避けるため建物を黒く塗った名残とのこと。


玄関部分。
曲線型の梁が珍しい。これを作るには高い技術が必要らしい。丸窓とそれに施された装飾も面白い。

建物を側面から見ると、一番高いところに丸窓があって正面から見たときとはちょっと違うかわいらしい表情も観れる。

敷地内の樹木

キャンパス内でも特に農学部エリアには珍しい植物が色々植えられている。
農学部のメインストリートで飛びぬけた高さと個性的なシルエットでひときわ目を惹く木。(古代ナントカって名前。高さ約20m。)

同じくユーカリの巨木。

なお敷地内の樹木にはこんな感じで番号が振られている。

農学部実験室(汽罐室)

大正10年(1921)建造。

今回の見学ツアーの中で一番古い建物。設計したのは倉田謙という九大の建築物を数多く手がけた方だそう。
Wikipedia 倉田謙

建造時は煉瓦造りだったけどのちにモルタルで補強したそうで、こんな感じでモルタルが剥がれて下の煉瓦の壁が出てきている部分も。三角屋根の部分も煉瓦の外壁が残っている。

横から見たところ。屋根の上にさらに小さい屋根が載っている。しかも純和風の瓦葺き。
そういえば以前これと同じ作りの屋根を広滝第一発電所でも見た。

( ↑広滝第一発電所 佐賀県の山の中にある明治40年に建てられた煉瓦造りの水力発電所。写真は2014年に撮影したもの。)

この建物は入口の扉がなくなっていて内部も覗くことが出来た。
素晴らしいまでのゴスゴスしい荒廃ぶり。(褒め言葉です)

これは一体何の跡なんだろう。
汽罐室なので、ここにボイラーが置かれていたのだろうか。

砂防工学実験室

昭和9年(1934)建造。

横長の木造建物。側面は蔦で覆われている。

ドアや窓のひさしを支える三角の鉄の装飾が目を惹く。

装飾部分のアップ。

入口部分。照明の暈は琺瑯だろうか。

熱帯農学研究センター

昭和6年(1931)建造。

正面玄関前は生い茂った植物で囲まれている。
白っぽい壁とオレンジ色の瓦の色合いもかわいらしい木造の建物。板を横に張った外壁は「下見張り」という工法らしい。

玄関上には米の字にも見える木組みの装飾。

屋根の端にはローマ数字の「Ⅲ」のような彫刻、ひさしを支える木の側面に施された三角の装飾。

側面。規則的に並んだ木製の窓の柵。
建物部分は洋風だけど、屋根は和風の瓦で葺かれている。

建物正面にあるものと同じ窓が裏側にもあった。上部分が半円形になったかわいい形。
この建物は保存・再利用される方針らしい。

この建物の前で参加者全員の記念撮影を行って、約1時間のツアーは終了となった。


以下はツアー終了後に撮ったその他の写真。

砂防実験室の近くにあった物置っぽい建物。

熱帯農学研究センターの隣にあった建物。壁面に見える三角形は免震のために施工されたものだそうだが建物のアクセントになっている。

同じ建物の非常階段。

駐輪場に置かれたリヤカー。停められたままの自転車も処分されてしまうのだろうか。

建物の外に入口がある女子トイレ。色んな意味で使用するのに戸惑いを感じる造り。
なぜか使用時間は制限付き。夜や日曜日は施錠されるらしい。

中央図書館前の掲示板。
閉館のお知らせの貼り紙を見る人も もう誰もいない。

構内の案内板にも立入禁止の表示。
この案内板の上にかぶさる様に茂っている植物は紫色のかわいい実をつけていた。

今回見学した農学部エリアの横も工事用の柵で囲まれている。工事を担当している会社のものらしき大きな建物が建てられていた。

理系エリアと向かい合う文系エリアも既に立ち入り禁止になっている。

これは構内の外にあった建物。
木造瓦葺、水色のペンキ塗り、多分戦前からある建物なんじゃないだろうか。

門柱の看板には「九州大学生活協同組合」と書かれている。

よく見ると窓の装飾がすごく細かくてきれい。
この建物も取り壊されてしまうのかな…


箱崎キャンパスは平成30年で伊都キャンパスへの移転を完了する予定。
跡地に残る建物は、老朽化などの事情で取り壊すものもあるけど、保全し再利用を検討する建物もあり、今後用地の活用を検討したり、使用を希望する企業への販売、新しい整備が行われていくそう。

個人的には、建物は勿論だけど今敷地内に生えている木もできる限り残してほしいなぁと思う。
当日貰った資料と一緒に入っていた紙に書かれていたけど、これだけ広大なキャンパスなので古いものを遺していくにしても取り壊すにしても、お金もかかるし色々考えなければならない課題があるとのこと。

キャンパス移転によって、好むと好まざるとにかかわらず、これから箱崎のまち自体も色々な変化が起こっていくんだろうなと思った。

(来訪日:2018/10/20)

九州大学 箱崎キャンパス

箱崎九大跡地ファン倶楽部


シュガーロード紀行 福岡博多#005 福岡藩の御菓子司と鶏卵素麺

江戸時代の福岡藩にも、御菓子司をつとめた菓子屋が複数存在した。
現在も営業を続ける菓子屋の一つが松屋。

初代松屋当主、松屋利右衛門は長崎の出島を訪れた際、鶏卵素麺の製法を伝授されたと言われています。
のち博多へ戻った松屋利右衛門は鶏卵素麺の製造販売を開始、時は江戸時代延宝元年(1673年)の事でした。
この延宝年間には福岡藩主黒田光之に鶏卵素麺を献上、以後黒田藩の御用菓子商となり現在に至っています。

松屋HPより引用


(詳細はよく調べきれなかったが、松屋は現在「元祖鶏卵素麺 松屋」と「松屋利右衛門」の二社がある模様。今回訪れたのは西区橋本に本店と工場がある「元祖鶏卵素麺 松屋」)

建物の店名の横には黒田家の家紋である藤巴も掲げられている。

ここで鶏卵素麺を購入した。

名前だけは以前から知っていたが、実はこのお菓子を食べるのは初めて。

このお菓子のルーツは、ポルトガルの「フィオス・デ・オヴォス」(fios de ovos、卵の糸)というお菓子だそう。「肥前の菓子」には鶏卵素麺についてこう書かれている。

煮えた砂糖の中に、じょうごのような器具を使って卵黄を流し込み、素麺のように細く固めた。
(中略)
福岡県の松屋菓子舗が約四百年前に長崎で手法を学び、黒田藩の指導や経済支援を受け秘伝を守ってきた。やはり上流階級が好んで食した。

原材料の表記を見ると、卵と砂糖だけ!
保存料は入っていないので賞味期間はやや短かめ。


この鮮やかな黄色の色合いを見て思い出すのは平戸のカスドース。
どちらもポルトガルに由来し、卵と砂糖をふんだんに使うことや、熱した糖蜜にくぐらせることなど、共通点の多い菓子と言える。

素麺の束のような固まりを一口大に切って頂く。
食べた感想は…「うーん、甘い」
もともとお茶の席で食されてきたお菓子なので、やはりお茶と一緒に少量を頂くのが一番美味しい食べ方のよう。

江戸時代にも鶏卵は食べられてはいたが、流通量が少なく薬のような扱いの高級食材だったので、原料となる大量の卵を確保すること自体が容易ではなかったと思われる。鶏卵素麺の製法は福岡藩以外にも伝わった形跡があるが、こういった原料調達の困難さもあって製造が途絶えてしまったところが多かったらしい。

福岡藩では大名家の支援や保護があったからこそ、かろうじて作り続けることのできたお菓子だったのではと思う。

シュガーロード紀行 福岡博多#004 筥崎宮に残る千利休の石灯篭

秀吉の博多滞在の際にはその宿舎ともなった筥崎宮。境内には千利休が奉納した石灯篭が今でも残っている。
ただしこの石灯篭はいつでも見ることができるわけではなく、5月のさつき大祭の日と9月の放生会の期間のみ公開されるとのこと。

先日、ちょうど放生会の開かれる時期だったので、お参りついでに石灯篭を見に行ってみることにした。

放生会期間中の参道や境内は人出がすごい…
列に並んでの参拝のあと、普段は解放されていない回廊内側も拝観する。

利休奉納の石灯篭は本殿の前にある。
その横に何やら古そうな石の碑が3つ並んでいるが、彫ってある字は大部分が薄れてしまい不鮮明になっている。

これは偶然目にすることが出来たものだが、筥崎宮菓道敬神会というものがあるらしく、福岡市内の菓子店から様々なお菓子が献上されていた。
二〇加煎餅やひよ子、千鳥饅頭、鶴の子など、まるでお神輿のようにお菓子の箱が積まれている。