「平戸松浦家伝来の伊能図」展

「平戸松浦家伝来の伊能図」展

平戸へ旅行した際、松浦史料博物館を見学した。
シュガーロード紀行 平戸#002 松浦史料博物館

そこではじめて松浦家に伝わる伊能図があることや、伊能忠敬と九代目藩主 松浦清(静山)・十代目藩主 松浦熈との間に交流があったことを知った。
その時に観たのは、平戸全土を描いた伊能図だった。

今年がちょうど忠敬の没後200年にあたる年でもあることから、九州国立博物館で松浦家の所蔵する伊能図の特別展示が行われるとのことで観に行くことにした。


博物館のロビーにも巨大な垂れ幕が掲げられている。

この日は九博の研究員の方による約1時間のミュージアムトークも開催されたので、それもあわせて聴講した。
以下、特に印象に残った内容などをまとめてみたい。

●伊能忠敬が天文学を学び始めたのは息子に家督を譲った後の49歳から、そして日本全国の測量の旅を開始したのは55歳から。
まずこの年齢に驚く。当時の感覚でいえばもうご隠居世代、老年とみなされるような年齢から勉強を始め、そこから亡くなるまでの約25年間でほぼ日本全国を測量し、地図を作り上げたことになる。

●忠敬が測量を始めたのは、「地球の大きさがどれくらいなのか知りたい」と思ったのがきっかけだったそう。
子午線1度に相当する正確な距離を計測出来れば、そこから地球の大きさを算出することが出来る。その計測をしたいがために、地図作成を名目に、当時一般人の立ち入りが禁じられていた蝦夷地へ行こうとしたのが測量の旅の始まりだったそう。これはちょっと意外だった。

●忠敬が作成した日本地図と現在の日本地図を重ね合わせて比較してみると、関東より西の地域はほぼぴったりと重なり合うが、それより東の地域は北に行くほどずれが生じている。
これは、北海道や東北が初期の段階で測量が行われた地域であり、その頃は測量がやや不慣れだったり未熟だったために誤差が生じていると考えられる。

●忠敬の測量が年を追うごとに精度を高めていったことは、子午線1度にあたる距離の計測・算出からもうかがい知ることが出来る。
測量を始めて間もない初期に算出した距離は、現代の科学で計測したデータの数値と比較してみると、約12%の誤差があった。しかしそれから数年後に算出した距離は、その誤差が約0.4%まで縮小し、現代のデータとほぼ変わらない数値となっている。

●伊能図は、実測したデータ(距離と角度)を基に位置を算出し、紙の上に針を打ち、その点を結んでいくことで描かれている。なので、よく見ると今でも針穴の跡を確認できる。
針穴の跡は忠敬たち測量隊が、実際にその地を歩き、測量した、足どりそのものを表すものでもある。

●実は、忠敬が作成した日本の全土図(大日本沿海輿地全図=正本)は現存していない。
(幕府に献上したものは明治期に焼失、伊能家にあった控も関東大震災で焼失している。)
現在「伊能図」と呼ばれ、私たちが目にすることのできるものは、部分的に残された「副本」、江戸~明治期に正本・副本から写しをとって作られた「写本」と呼ばれるものである。


忠敬らの一行が平戸での測量を行った際には、藩主の熈が測量の様子をみるために自ら立ち会ったりもしたそう。

地図が完成したら譲ってくれるようにとの約束が松浦家と忠敬の間で交わされていたが、忠敬は地図が完成する前に亡くなってしまう。そのため、地図は後に残された忠敬の弟子たちにより作成され、松浦家に納められた。


これまで何度か目にしたことはあった伊能図だが、こんなに多くの伊能図を一度に、かつ つぶさに見たことはなかった。
ミュージアムトークでも語られていたが、改めて見てみると、地図として精度が高いのは勿論だけど、加えて色遣いや線や記号の書き込み方に絵画的な美しさもある。

これは会場で頂いたパンフレット。四つ折りのA4サイズだが、

広げると、なんと裏面一面に九州一円図が印刷されている。
これはすごい。
海岸線を辿ったり、びっしりと書き込まれた地名を見るのも楽しい。

あまり買うことのない図録も、今回はしっかり買ってしまった。

図録には部分的にではあるが伊能図の拡大写真も掲載されている。現在の福岡市とその周辺にあたる部分の拡大図も載っていたが、なじみのある地名がずらりと記載されている。
二百年以上前、ここも確かに忠敬の測量隊一行が訪れていたのかと思うと感慨深い。


伊能図展と同時開催で「太宰府研究の歩み」という企画展示も行われていたので観てみたが、この展示物の中にも松浦家由来のものがあった。

江戸時代には、文化人の間で太宰府旅行が流行したらしい。
(当時はかつての政庁跡は畑に埋もれていた状態で、もちろん整備や史跡の保存活動などは行われていない。)在りし日の”遠の朝廷”を偲びながら瓦を拾ったりする人もいた。

司馬江漢も太宰府を訪れ、その際に拾った瓦の破片を江戸に持ち帰っている。
その瓦の破片はこのあと司馬江漢から松浦清山に贈られ、詞書をつけられて松浦家に伝わることになる。

また、清山自身も太宰府を訪れ、自ら瓦を採取して持ち帰っている。

巡りめぐって何百年後かに、再び大宰府の地に戻ってきて、こうやって博物館に展示されているのかと思うと何だか面白い。

(来訪日:2018/12/08)

 


特集展示:伊能忠敬没後200年記念「平戸松浦家伝来の伊能図」

特集展示:大宰府史跡発掘50年記念「大宰府研究の歩み」展