シュガーロード紀行 飯塚#006 さかえ屋のすくのかめ

飯塚の菓子店、千鳥屋の次に訪れたのはさかえ屋の飯塚本店。

創業は1949年。
“さかえ屋”という店名は、実は千鳥屋本家のそばにあった栄橋に由来しているそう。


この日本家屋は、昔おかき工場として使われていた建物を移築したもの。現在は喫茶スペースとギャラリーになっていて、お菓子や飲み物を楽しんだり休憩できるようになっている。写真左奥に見えているのが店舗。


店舗の前にはシュガーロードの由来を記した看板もあった。

お店に入ると、色々な種類の和菓子、洋菓子、さらにアイスなどたくさんの商品が並んでいる。
ケーキ類の並んだショーケースの中に、その名も「シュガーロードシュー」というシュークリームがあるのを発見して思わず買ってしまった。

すくのかめ

さかえ屋で買ってきたお菓子の実食、まずはすくのかめ。

今は「なんばん往来」がいち推し商品のようだが、私が小さい頃は、さかえ屋といえばすくのかめだった。
このお菓子の製造開始は1957年、名前の由来は、弥生時代の遺跡から出土した須玖式土器らしい。

かめの形の最中のなかには、餡と求肥が入っている。
定番の味は小豆と抹茶の2種、季節によって限定商品も発売されるらしい。今回は抹茶と柚子を購入した。

抹茶は見た目も美しい緑色の抹茶餡入り、期間限定の柚子味には細かく刻んだ柚子の皮も入っていてさわやかな風味が楽しめた。

シュガーロードシュー


名前に釣られて買ってしまったこの商品、最近作られるようになったものだと思うが、洋菓子製造にも力を入れているさかえ屋さんなだけあって美味しいシュークリームだった。

皮はしっかり固め、大きな粒状の砂糖がまぶして焼いてあるのでザクザクした食感で、バニラの黒い粒々の入ったカスタードが入っている。生菓子なので限られた店舗だけで取り扱っている商品かもしれない。

(来訪日:2018/11/25)


シュガーロード紀行 飯塚#005 千鳥屋本家の千鳥饅頭・千鳥サブレ

飯塚とお菓子

飯塚で様々なお菓子が作られるようになるのは、炭鉱業が盛んになる明治~大正期。

工場見学に行ったひよ子の吉野堂も、明治30年に飯塚で開業、ひよ子を売り出したのは大正元年のこと。チロルチョコで知られる松尾製菓が現在の田川市で製菓業を開業したのも明治36年だった。)

炭鉱で過酷な肉体労働をする人達に、体力を補い疲れを癒すために甘いお菓子が大変好まれたことも大きく関連しているだろう。

その頃の筑豊炭田には150以上の炭鉱があり、日本全国そして外地からもたくさんの炭鉱労働者が集まっていた。

また、飯塚も長崎街道の宿場町=砂糖やお菓子その製法の通り道だったので、お菓子の一大生産地となる素地が近代以前から既にあったことも大きく影響していると思う。

筑豊炭田の石炭生産量と人口が右肩上がりで増えるにつれて、お菓子の消費量も一層高まり、飯塚だけでなく筑豊一帯で製菓業はますます盛んになっていく。

千鳥屋本家

飯塚の老舗のお菓子屋さんを訪れてみたい。一軒目は旧伊藤邸に電話番号の貼り紙があった千鳥屋。

白壁の純和風の店舗がとても素敵。
金文字の看板にも老舗ならではの重厚感がある。

お店の横には、橋の欄干らしきものがあった。

らんかんに みだれ飛ぶかな 千鳥跡
原田青夜こと利一郎

飯塚川にかかっていた栄橋は昭和初期に造られ千鳥屋本店横の橋のらんかん(親柱)には、上部に銅板装飾の千鳥のマークが刻まれております。
平成二十三年四月

今はなくなっているが、昔はここに飯塚川という川があり、橋がかかっていたらしい。

千鳥屋の歴史

天正十八年(1590)
九州北部を支配していた龍造寺隆信の子・政家が病弱のため、家臣の鍋島直茂(鍋島藩祖)に領地を譲り、太俣郷(現・佐賀県佐賀郡久保田町)に隠居。家臣の原田家も政家にしたがって移住。やがて武家の内職として酒饅頭などの菓子を作り、生計を立てる。

寛永七年(1630)
原田家が佐賀県佐賀郡久保田町に「松月堂」の屋号で本格的に丸ボーロ、カステラを中心としたお菓子屋を始める。



昭和二年(1927)
福岡県嘉穂郡飯塚町住吉の中央市場(現・飯塚市本町の永楽通商店街)入り口に松月堂の飯塚支店として「千鳥屋」を開店。千鳥饅頭、丸ボーロ、カステラの三品を専門に製造販売。

千鳥屋本家 沿革 より-

千鳥屋のHPを見ると、ご先祖は戦国大名 龍造寺家に仕えるお武家さんだったとのこと。千鳥屋の前身の松月堂の創業は寛永七年(1630)、ということは、単純計算で今年は創業389年目ということになる。

お店の歴史の古さにも驚くが、もとは佐賀のお菓子屋さんだったことも意外だった。久保田は以前訪れた小城や牛津の隣にあり、そこも長崎街道が通っていた場所。

松月堂が飯塚に支店を出した昭和2年頃は、筑豊炭田が日本最大規模の炭田となり、ちょうど最盛期を迎えていた時期にあたる。その後、松月堂は昭和14年に閉じられ、以後飯塚の千鳥屋が本店となった。
(確かなことは分からないのであくまで推測だが、本拠地を移すほどに当時の飯塚での売上げが大きかったのかもしれない。)

なお現在は、飯塚が本拠地のこの千鳥屋本家と、福岡市博多区が本拠地の千鳥饅頭総本舗の2社に分かれている模様。

この飯塚の紀行を行うまで私も千鳥屋が2社あることに気付いていなかったが、現在福岡で流通している千鳥饅頭も実は2種類あるということになる…。

店内には和菓子の他に洋菓子(特に焼き菓子)も色々並んでいる。
チロリアンもこの店の看板商品。カステラ、丸ボーロも今も売られている。

ここでは千鳥饅頭などを購入した。

千鳥屋本家

千鳥饅頭

飯塚で買ってきたお菓子を試食してみたい。まずは千鳥饅頭。

創業三百七十余年来、守り続ける伝統のカステラと丸ボーロから生まれた千鳥屋の代表菓です。

口ほどけのよいやわらかな舌ざわりの白餡と風味よい焼き皮の上品な甘さ。凛とした姿は、時代を越えて皆様に愛され続けております。
千鳥屋HP より-


お饅頭には千鳥の焼き印が捺されている。皮はやや凹凸がある見た目で、特に皮の表面部分はしっとり感よりサクッと感がある。
いわれてみれば確かに丸ぼうろにも通じる食感があるような…。白あんはなめらかでやさしい甘さ。

この千鳥饅頭にも言えることだが、長い間愛され続けるお菓子にはシンプルなのに飽きのこない味わいがあると思う。

千鳥サブレ


店頭で見つけたので千鳥饅頭と一緒に買った商品。
千鳥屋にサブレがあるのは知らなかった。商品名も筆書きで包装も何だか和風の趣き。


このサブレは何と言っても形がかわいい。さっくりと焼き上げられていて素朴な味わいだった。

(来訪日:2018/11/25)


シュガーロード紀行 飯塚#004 飯塚の名のおこり 曩祖八幡宮・飯の山

飯塚の地名の由来については曩祖八幡宮で触れたが、地名の起こりとなったもう一つの場所とされるのが「飯(いい)の山」。
先ほど通っってきたアーケード街の近所にあるそうなので見に行ってみたいと思う。

途中、明正寺というお寺の前には「勢屯り跡」の石碑が建っている。

参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち先触(さきふれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの整列を整えたところ。
なお明正寺には享保十四年(一七二九)八代将軍吉宗に献上された象が飯塚宿を通った記録があります。

勢屯り跡を過ぎ、もう少し歩いて小高い丘の坂をのぼる。

ここが飯の山、確かにご飯を盛ったようなこんもりとした形をしている(ような気がする)。
大きな山かと思っていたが、想像していたよりかわいらしいサイズ。

石碑も建てられている。

史跡 飯の山

昔、明星寺という寺の造営が行われたとき、その開堂供養のまつりに、飯をたくさん炊いたのが残り、それをこの地に集めたところ、飯の塚ができたので、それから飯塚と呼ぶようになったといいます。
また、神功皇后が「いつかまた逢おう」と将兵との別れを惜しまれたのが、地名の起こりであるという話と共に「飯塚」の地名の起源を説明する伝説の地であります。
ここはまた江戸時代、飯塚宿の上茶屋(本陣)のあったところでもあります。

-飯塚市教育委員会-

“ご飯の塚ができた”という伝説は、この土地が昔からお米がたくさん実る豊かな土地だったことを如実に表しているのではないかと思う。

実際、飯塚では立岩遺跡という弥生時代の遺跡も発見されていたり、飯塚とその周辺地域には数多くの古墳も残っているらしい。

先ほどの説明文にもある通り、この飯の山と向かい合うところには御茶屋(本陣)跡を示す石碑も建てられている。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#003 飯塚市街に残る長崎街道の面影

旧伊藤邸のある幸袋から、長崎街道を辿って飯塚宿(今の飯塚市中心部)方面へ向かう。


このあたりは、現在の国道220号線と一部重なりつつ並走するような道筋となる。


昔のままの道幅の通りには、古い町並みが残っていた。

ブロック塀と同化して、気づかずにうっかり通り過ぎそうになったが、飯塚宿に入る手前には「オランダ屋敷跡」と記された石碑も立ってた。長崎から江戸へ向かったケンペルやシーボルトはこのあたりに泊まったのだろう。

いまは駐車場や住宅地になっていて、この石碑以外には屋敷の痕跡は何も残っていない。

曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)

先ほどのオランダ屋敷跡の石碑から少し歩くと、曩祖八幡宮の前に出る。
道に面して大きな鳥居が並んでいるのが目を惹く。

刻まれた文字を読むと、今建っている鳥居は明治~大正の頃に建てられたものだが、江戸時代の飯塚宿とその周辺を描いた絵図を見ると、当時もまったく同じように街道に面して鳥居が並んで建っていたことがわかる。


御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰 そして天神地祇。曩祖八幡宮のHPを見ると、神社の歴史についてこのように書かれています。

神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。
このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。
創建年代は不詳ですが、延文4年(1359年)には社殿が建立されてました。大正13年に県社に昇格しました。

神社歴史 | 曩祖八幡宮 

以前訪れた嬉野の地名の由来にも神功皇后の伝説が関連していたが、飯塚もそうだったことを知る。北部九州には他にも神功皇后に由来する地名が数多く存在している。(宇美・筥松・箱崎など)

市街に残る長崎街道の痕跡

曩祖八幡宮からまた少し歩くと、「構へ口跡」と書かれた石碑が建っている。
構へ口というのは宿場町の入り口のこと。

市街中心にある本町商店街のアーケードの通りは、そのまま飯塚宿のあった場所と重なる。
長崎の大村でも街道の宿場町がアーケード街として残っていた。

「長崎街道 飯塚宿」の看板もある。

黒ポストというものもあった。
後ろに架かっている説明文によると、九州で初めて郵便制度が整備された区間も長崎街道沿いだったことがわかる。

アーケードを抜けたところには長崎街道の案内図もある。

飯塚宿があった場所は、のちの時代に急速に市街化が進んだために建物などは殆ど残っていないが、近年の整備により何処に何があったかを示す石碑は数多く建てられている。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#002 旧 伊藤伝右衛門邸

飯塚でまず最初に訪れるのは、筑豊の炭鉱王として知られた伊藤伝右衛門の旧宅。
西鉄バスでは天神から旧伊藤邸行きのバスが運行されている。

行先表示も「幸袋・伊藤邸」。(幸袋は伊藤邸の所在地名)
バスに揺られること約1時間、終点は旧伊藤邸のすぐそばなので降りて徒歩1~2分でお屋敷の前に到着する。


こちらが正門。
長屋門と呼ばれる門の両脇部分がお屋敷の使用人の住居スペースになっている作り。
この門は現在の福岡市天神の福岡銀行本店付近にあった伝右衛門の別邸(赤銅御殿)から移築したとのこと。


門の看板は麻生太郎氏が総理大臣だった頃に揮毫したものらしい。なお、麻生氏の家系も石炭産業で大きな財を成した筑豊御三家(麻生家・貝島家・安川家)のひとつである。


伊藤邸は敷地面積約2300坪、部屋数25、複数の蔵などもあり、屋敷の前には美しい日本庭園が広がる。

伝右衛門の死後 屋敷は人手に渡るが、個人でこの広大な邸宅と庭園を存続させることは容易ではなく、一度は取り壊しを検討されたこともあった。

その際に存続を求める市民運動がおこり、現在では飯塚市に譲渡されて保存と管理が行われているとのこと。

暖炉もある洋風の応接間。テーブルに飾られているのは伝右衛門と柳原白蓮の写真。

柳原白蓮は大正三美人の一人としても数えられた美貌の歌人。
伝右衛門は妻となった白蓮を迎え入れるために、この邸宅に贅をつくした改修を施した。白蓮は皇室とも血縁関係がある生まれ(大正天皇の従妹にあたる)だったので、このお屋敷の中には皇族のみが使うことのできる特別な装飾も施されている。


しかし、もともとが25歳も歳の差がある結婚。二人の気持ちがすれ違うことも多く、最後は白蓮の駆け落ちにより結婚生活は約10年で破綻する。


数年前、朝のTVドラマにも伝右衛門と白蓮が登場し、その際にこの伊藤邸も注目を集め来場者が急増したことがニュースになっていた。実際に視聴していないので詳細は知らないが、ドラマでは伝右衛門はあまり好意的な印象では描かれていなかったらしい。

確かに白蓮にとっては良き夫ではなかったかもしれないが、彼は筑豊の炭鉱業を振興させただけではなく、福岡銀行の設立を実現させたり、地域一帯の学校に寄付を行い職工学校や女学校を設立したり、農園を経営し作物の栽培を研究させたりと、さまざまな面で地域に貢献した人物でもあった。

また、太宰府天満宮や宮地嶽神社には、伝右衛門の奉納した鳥居が今も残っている。

お台所の近く、電話室のあった場所でこういうものをみつけた。

電話室(お貼りください)
御菓子司 飯塚千鳥屋
電 八三一

白い矢印がさす少し上に何やら黒ずんだ紙片が貼ってあるが、手前右の写真はその紙片を写したものらしい。

お屋敷でお菓子が入用なときには千鳥屋に電話をかけて注文していたのだろう。伝右衛門や白蓮も千鳥屋のお菓子をよく口にしていたのかもしれない。
思いがけなく菓子に関連する遺物も発見できて嬉しくなった。


ところで、この伊藤邸は長崎街道沿いに建っている。
長屋門の柵にも「長崎街道」と書かれた札が取り付けてあった。

周囲には白壁の家が並んでいて、昔の街道の面影を残している。


壁にこんな繊細な細工を施した古いお家もあった。左官さんが漆喰に鏝を使って描くもので「鏝絵」というらしい。

(来訪日:2018/11/25)

シュガーロード紀行 飯塚#001 ひよ子の工場見学に行く

以前からずっと気になっていた飯塚市穂波にあるひよ子の工場の見学。
この紀行もちょうど飯塚まで進んできたこともあり、この機会に行ってみることにした。

工場見学の概要はひよ子のHP に記載されている。
電話で直接申し込むが、この工場見学は常に人気らしく1~2ケ月くらい先でないと予約が取れない。
私の場合も9月に申し込みをしたが、見学の予約が取れたのは11月の日程だった。


工場見学当日。よく晴れていて11月と思えないほど気温も高い。
午前9時台、福北ゆたか線で博多から工場最寄り駅の天道まで向かう。(天道は「てんとう」と読む。)

天道駅から工場までは徒歩で向かう。
しばらく歩くと穂波川が現れるが、この川の向こうにひよ子の穂波工場が見えてくる。

GoogleMapのルート検索では約15分と表示されていたが、実際にはもうちょっとかかった。

工場に到着。建物も大きいが看板も大きい。

受付を済ませ、消毒液で手を消毒していよいよ工場見学が始まる。
1グループ約20人ほどで、案内役の社員さんの解説を聞きながら工場内の各工程をガラス窓越しに見学して行く。


この工場では、ほぼ全工程をオートメーション化して主にひよ子とひよこサブレ―の生産が行われている。

今回の見学で最大の発見だったのは、「ひよ子はおしりから作られる」ということ。

餡を生地で包んだ次の工程でひよこ形に成形され、おしり側を進行方向に向けてレーンの上を進んで行く。おしりから進んでいくのは、頭を前にするよりもこのほうが安定し、途中で倒れたりしにくいためらしい。

オーブンに入っていくのもおしりから。
たくさんのひよ子が行進するように進んでいくさまは壮観。

15分ほどかけて大きなオーブンの中を通過すると、ほどよく焼きあがって出てくる。
目を入れ大きな螺旋状の装置の中でゆっくり冷まして、専用の機械で手早く1個づつ紙に包まれる。

最終工程の箱に詰める作業は人の手で。

この工場でつくられたひよ子は、このあと直営店をはじめ九州一円に出荷されていく。


工場見学が終了すると、できたてのひよ子を試食することが出来る。

工場から直接持ってきたひよ子を社員さんが見学者に配ってくれる。
手のひらに載せるとまだあたたかいので、できたてというより「生まれたて」と言いたくなる。

できたてのひよ子は皮の部分がちょっとサクッとした食感ですごく美味しかった。
普段食べるひよ子は製造後数日経って皮と餡がしっとりなじんだものなので、できたてひよ子はまさにここでしか食べられない。


工場には直売所も併設されている。

この直売所は昭和初期の飯塚本店を模したものだそう。よく見ると電話番号も七四五(ひよこ)番になっている。商品を選んでいる間も、常連らしい地元のお客さんが何人も来店して、1箱2箱とひよ子を買っていく。

これも直売所で売られていたシャーベット甘酒。
気温が高かった日だったこともあり、冷たいものがおいしそうに感じられて買ってみた。

直売所前に茶店風の休憩スペースがあったので、そこでさっそく頂く。
甘酒のシャーベットは初めて食べたが、甘みも優しくさっぱりとした食感だった。


こちらが直売所で買ってきたお菓子。バラ売りされている商品も多かったので色々買ってみた。

「ひよこれいと」や「ピィナンシェ」はネーミングにやや無理矢理感もあるが、商品の名前も形もまさにひよこ尽くしといった感じ。

今回は季節限定で「栗ひよ子」が販売されていたので、そちらを購入した。

製造工程を見た後だと、ひよ子の姿にも一層愛着めいた感情がわいてくる。

皮の生地には九州産小麦、栗は熊本産和栗が使用されている。白餡に栗が加わるとクリーミーさが一段と増す感じだった。


工場見学中に見た会社の歴史に関する展示や、社員さんによるひよ子についての解説も興味深い内容だった。

現在の株式会社ひよ子は、明治に飯塚で創業した吉野堂というお菓子屋がはじまりにあたる。
ひよ子の会社サイトを見るとこういう記述があった。

福岡藩・藩祖黒田官兵衛公が福岡入りする際に、八木山峠の石坂茶屋に逗留し、自ら宰領された「博多往還」。
この折の協力とおもてなしによりお褒めの言葉とともに石坂の姓を頂いたと伝えられています。

八木山の地で蒔かれたおもてなしの芽は、初代・石坂直吉が飯塚本町に菓子舗吉野堂を新たに開店することにより花開いたと言えるでしょう。

「菓子舗𠮷野堂創業120年の歩み」より引用

上記の文中に出てきた博多往還・八木山峠・飯塚の位置関係を地図上で見てみるとこうなる。

博多往還は日田街道とも呼ばれ、博多と天領日田をつないだ街道。
博多往還の途中にあるのが八木山峠、その八木山峠を越えた先、博多往還と長崎街道がちょうど交差する位置にあったのが飯塚だった。

今をさかのぼること400年以上前から、道がむすんだ縁が契機となって、石坂家の歴史が始まったことになる。

また、ひよ子が飯塚銘菓から福岡銘菓に、さらに東京銘菓になってゆく経緯にも、交通網の発達が大きく関連している。

ひよ子が福岡 天神の一等地に店舗を開店したのが昭和32年、その前年の昭和31年は東京ー博多間を走る特急「あさかぜ」が運行を開始した年だった。
そして1回目の東京オリンピックが開催され東海道新幹線が走り始めた昭和39年には関東に工場を建設している。

これまでになかった大きな人の流れが発生し、お土産の需要も高まるタイミングをうまくつかまえて福岡・東京の定番みやげとなっていったのが面白い。

こういった背景を知ると、やはりお菓子はその地域のもつ特徴や歴史、経済や物流などと深く関係しているのだな、と改めて思う。

ひよ子の歴史は、会社のHP上でも読むことが出来る。
吉野堂物語 http://www.hiyoko.co.jp/yoshinodo/index.html

(来訪日:2018/11/10)