シュガーロード紀行 平戸#008 東西百菓之図

平戸では伝統的なお菓子を継承・復活させるだけでなく、新しいお菓子を創造する試みも行われている。

「東西百菓之図」は、オランダ人クリエイターが平戸の風土から受けたインスピレーションを、平戸の菓子職人の手によってお菓子として表現しようというもの。

これは松浦史料博物館で購入した「東西百菓之図」のパンフレット。

プロジェクトの内容はWEBサイトにもまとめてある。


Sweet Hirado -東西百菓之図 お菓子の島 平戸

実は同じ年の7月、長崎のローカル局で制作された「Sweet Island HIRADO −平戸の伝統菓子復活−」というTV番組を偶然見る機会に恵まれた。その番組で紹介されていたのが「東西百菓之図」でお菓子の制作にかかわったクリエイターや平戸の老舗菓子舗の職人の方たちだった。

平戸に行こうと思ったのは、この番組を見て興味を持ったからというのも理由の一つだった。


平戸の熊屋さんを訪れた際に、この「東西百菓之図」のお菓子を購入できるか尋ねてみたところ、最低でも1週間前からの予約が必要とのこと。

その場で購入することは出来なかったが、「福岡にも支店があるのでそちらでもご注文やお受け取りができますよ」と教えていただいたので、福岡に戻ったあと改めて注文することにした。

熊屋さんの福岡店は、赤坂にある熊久 というお店。

今回は生菓子を3種注文した。

写真奥から「3つの矢」「四人漕ぎのボート」「墨で染めた織物」。

白餡・小豆・寒天など、ベースは和の素材だけど、バニラやスパイス等、通常の和菓子には使われることのないような素材も組み合わされて1つのお菓子になっている。

この3つの中では、ピスタチオに柑橘系の風味をあわせた「四人漕ぎのボート」が特に美味しく感じた。

見た目も1つ1つがとても個性的。
これは和菓子でもあるけど、その枠に収まらない、また別の種類の新しいお菓子だと思った。

 

シュガーロード紀行 平戸#007 平戸松浦氏・平戸と砂糖・鎮信流・百菓之図

平戸松浦氏

鎌倉時代から明治維新まで平戸を治めたのが松浦氏。その家系は平安時代までさかのぼることが出来る。

松浦氏の系譜については諸説あるが、渡辺綱の子孫とするのが通説。中世には肥前・壱岐の水軍衆である松浦党をなした。(中略)
一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。
Wikipedia「松浦氏」

松浦党の氏族をあげると、相知氏・伊万里氏・佐志氏・有田氏・御厨氏・値賀氏など。
これらは現在も長崎や佐賀の市町村名や地名として残っている。旧肥前国の北部地域一帯は松浦党の勢力圏だったことがうかがえる。

これは平戸城にあった展示物の一つで、松浦家の家系図。
大きなパネル一杯に細かい文字で系図がびっしりと書き込んである。

なお、松浦家の家系は今も続いていて現在のご当主は41代目になるそう。


松浦氏の居城だった平戸城。

この場所には戦国時代に一度城が築かれたが、完成を目前にして松浦氏自らその城を放棄することになる。

松浦藩二十六代 鎮信は 慶長四年 亀岡に「日の岳城(ひのたけじょう)」を築いた。
しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため「日の岳城」を焼却、平戸六万一千七〇〇石と民を守った。

以来約九十年間を「御舘(おたち)」で過ごすが、三十代 棟(たかし)となって一七〇四年「平戸城」の再築を開始、一七一八年完成した。

明治四年廃城となり、昭和三十七年平戸市により復元された。

-平戸城のパンフレットより引用-

※松浦家の歴代当主の中には、隠居後に「鎮信」という名に改名した人物が複数いる。上記に名前のある鎮信は、鎮信流の開祖の29代目鎮信の曽祖父にあたる人物。

平戸城に展示してあった江戸時代の図面。
江戸時代に築かれた平戸城は、山鹿素行のひらいた兵学 山鹿流に基づいて造られた日本で唯一の城でもある。


平戸と砂糖

平戸は日本で初めてポルトガル・イギリス・オランダとの国際貿易が行われた場所で、「西の都フィランド(FIRANDO)」とも呼ばれた。

最初に平戸へやってきた南蛮船はポルトガルの船だったが、この入港の手引きをしたのは、既に交易のあった明(中国)の商人だったという。松浦氏は明やマカオとの交易で多大な利益をあげていたので、南蛮との貿易についても積極的な態度だったらしい。

(ただし、ポルトガルとの交易はキリスト教の布教を巡って対立が激化、地元住民とポルトガル船員の間で殺傷事件も起こり長続きしなかった。ついで訪れたイギリスも交易は行ったものの短期で撤退。最後にやってきたオランダとは宗教的な問題も少なかったため交易は長続きしたが、江戸幕府の鎖国政策により平戸にあった商館は閉鎖、交易の場は長崎出島に移されてしまう。)

長崎より約20年先んじて開始された南蛮貿易により、いちはやく砂糖が入ってきた場所でもあるので、いってみれば平戸こそが「シュガーロードの本当のはじまりの場所」と言えるかもしれない。


鎮信流

江戸時代初期に松浦家第29代目 鎮信(しげのぶ)公によって開かれた茶道の流派。松浦家で代々引き継がれて現在に至っている。鎮信流は “ちんしんりゅう”と読む。

お茶の席には菓子が欠かせないが、平戸には鎮信流が興る以前から中国や南蛮から伝わった様々な菓子があった。藩内で茶道が盛んになるにつれて、平戸の菓子も洗練の度合いを高めていったのだろう。

「江戸時代の平戸の菓子」を読むと、寛政期に平戸城下にあった食品関連の商家は233軒、そのうち31軒が菓子屋(一番多いのは魚屋で55軒)だったとのこと。もともと菓子を好み、多く消費していた土地柄だったことがうかがえる。


百菓之図

松浦家に伝わる「百菓之図」は、平戸藩のお菓子 百種類の製法と絵をまとめた、いわばお菓子の図鑑。お菓子はそれぞれ外観と半分に切った断面図が鮮やかな色合いで描かれている。

百菓之図は数年がかりで作られ、完成したのは1854年(弘化二年)。この時お菓子の製作にあたったのが藩の御菓子司、蔦屋と堺屋。(堺屋という菓子屋は現存しないが、蔦屋は今もお店がある。)

松浦家の奥膳所用に巻物にしたものが一部、御菓子司に渡したものがそれぞれ一部づつ、草稿にしたものを手元用に、計四部があったらしい。

「江戸時代の平戸の菓子」には、非常に小さい図版だがその全体図も収録されている。表面に鶴を描いた真っ赤な菓子、白蛇が巻き付いたような意匠の菓子、どんな色素を使っているのかわからないが鮮やかな青色の菓子など、見たこともないような奇抜なものもある。

名前も面白い。「種ガ島(たねがしま)」「花曇(はなぐもり)」「稲妻羹(いなづまかん)」「水玉羹(すいぎょくかん)」「筆の跡(ふでのあと)」「氷柱巻(つららまき)」など。

百菓之図に収録されたお菓子は、そのすべてがずっと作り続けられてきたわけではなく、もう作られなくなってしまったものも数多くあったらしい。
平戸では近年そういったお菓子の復元活動も行われている模様。

これは閑雲亭にあった「百菓之図 復元菓子」のパンフレット。「百菓之図」の菓子の一部が紹介されていた。
表紙には「烏羽玉(うばたま)」の絵が使用されている。表面にまぶされた粉雪のような和三盆など描写も細かい。



伊能九州図と平戸街道―平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書 (4))

シュガーロード紀行 平戸#006 熊屋の牛蒡餅

平戸の老舗菓子店巡り、蔦屋に続き訪れたのは熊屋。

こちらは1762年(宝暦12年)の創業。
お店の看板や暖簾には臼と杵を図案化した模様が描かれている。

店内には和菓子だけではなく洋菓子も並んでいる。
カスドースもあった。(ただし熊屋さんのカスドースは「カスポール」という商品名で販売されている。)

ここでは「牛蒡餅」を購入する。

平戸藩の藩主鎮信公を始祖とする茶道鎮信流の茶菓子として、又一般町家の人々も慶事・法事の際には、必ずと言っていい程牛蒡餅を「お配り菓子」に使うという風習があり、平戸にのみ昔のままの姿で残されて来たものでございます。
尚、名称の由来は、昔は黒砂糖のみを使用し、長いままを茶席で亭主が客席にあわせて、切って供していたもので、色合い形状が牛蒡に似ていたからだと伝えられております。

熊屋HP「牛蒡餅」より引用

説明にあるように、見た目が牛蒡っぽいためにこの名前が付けられたらしい。

「江戸時代の平戸の菓子」を読むと、百菓之図では「山椒羹」という名で記されているお菓子が現在の牛蒡餅に該当する製法であること、また昔は、武家では縁起物として新年に牛蒡を贈りあうならわしもあったことが書かれていた。


購入した牛蒡餅は旅行から帰って頂いた。

原料として使われているのは、上用粉(お米の粉)、三温糖、黒糖、芥子の実など。昔ながらのシンプルな材料で作られたお菓子なので、あまり日持ちはしない。

筆書きのラベルや竹の皮を使った包装も素敵。

古くからある牛蒡餅は茶色や白らしいが、今回買った「彩りあわせ本牛蒡餅」という商品には抹茶の入った緑色の牛蒡餅やピンク色の牛蒡餅も入っていて見た目も楽しい。

あっさりとしたやさしい味わいのお菓子だった。

(来訪日:2017/09/09)


 

シュガーロード紀行 平戸#005 蔦屋のカスドース

平戸の老舗のお菓子屋さんを訪れてみたいと思う。

蔦屋の創業は1502年(文亀2年)、現在も営業する九州の菓子屋としては創業が最も古いお店であり、江戸時代には平戸藩の御菓子司も務めた。今のご店主は24代目になるそう。

お店の入っているこの建物には「按針の館」という看板もかかっている。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)が住んだこともある場所らしい。
按針の館


お店では、カスドースや花かすてらなどの復元菓子や季節の和菓子を販売されている。
まだ暑い時期だったので店頭には麩まんじゅうも並んでいた。
(後で知ったが、閑雲亭で頂いた烏羽玉も蔦屋さんで造られたものだったみたい。)

購入したお菓子は、売り場の奥にあるお座敷でコーヒーと一緒に頂くこともできるのでここでカスドースを頂いた。
お座敷は中庭に面していて、テーブルにはお菓子の製造に使う木型が飾ってあった。

実を言うと、平戸に行こうと思ったのは、カスドースを食べてたみたかったからというのもある。
はじめて食べるカスドースは、とても甘くて濃厚な味だった。ブラックのコーヒーと一緒に頂くと丁度よい感じ。小さいお菓子だけどこの甘さ故それでも十分満足感がある。


カスドースというお菓子は、それほど広く知られていない気がする。

「肥前の菓子」のカスドースについての記述を見ると、江戸時代のあいだはお殿様の為の”御止(おとめ)菓子” とされ、明治維新までは一般の人の口に入ることがなかったと書かれている。

また、平戸は今では平戸大橋がかかっているので容易に行き来できるようになっているが、この橋が開通したのは昭和52年。それ以前は船を使って海を渡らなければ行けない島だったので、島の外にあまり広まることがなかったのだろう。

加えてカスドースは作るのにも手間がかかる。
まずカステラを焼いて、それを小さく切りそろえ、溶いた卵黄に浸して沸騰した糖蜜で揚げ、周りにグラニュー糖をふんだんにまぶして出来上がり。作るのに1日以上かかるらしい。

カステラに比べカスドースの知名度が低いのは、こういった事情も関連しているように思える。


これはお土産で買って帰ったカスドース。
そのままでも勿論美味しいが、オーブントースターで少し焦げ目がつくくらいに焼いて食べても美味しかった。

創業文亀2年 元祖カスドースの平戸蔦屋

(来訪日:2017/09/09)


シュガーロード紀行 平戸#004 平戸オランダ商館

 

約400年前にオランダ商館があった同じ場所に2011年に復元された建物。館内にはオランダとの交易に関するものを中心に史料が展示されている。


中に入ると木材のいい香りがする。館内は殆どの部分が撮影自由。

大航海時代の地図にある日本はすごく大雑把な描かれ方をしている。

当時の日本人からみた異国人の姿。この絵は西洋人の顔立ちもわりあい正確に描いていると思う。

オランダなのでチューリップ。

展示物は藩主だった松浦氏が所蔵していたものが多い。

余談だが、この約2ケ月後、九州国立博物館で行われた「新 桃山展」を観に行ったときに、ここで観たオランダ船首飾木像に再び出会うことになる。
「あらこんなところでまたお会いしましたね」と思ってしまった。


1609年に平戸オランダ商館が設置されます(1641年出島移転)。やがて貿易額が増加し、石造の倉庫を建設することになりました。その中で、最大のものが1639年築造の石造倉庫です。
しかし、江戸幕府より西暦年号(キリスト紀元)を建物に使用していることを理由に破壊を命じられました。

-平戸オランダ商館のパンフレットより-

その破壊の元凶となった西暦年号の表記がこれ。
中央のVOCはオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)のマーク。復元された建物の入り口にも同じものが設置されている。

館内で流れていた映像でもその経緯が解説されていたが、幕府側の殆ど難癖に近い言いがかりがもとで、平戸にあったオランダの貿易関連施設は取り壊されてしまった模様。

それだけ幕府が外国との交易・交流を厳重に管理しようとひどく執心していたこともうかがえる。


来館記念スタンプがかわいい絵柄だったので、近くに置いてあったフライヤーに押して持ち帰る。このフライヤーもかわいい。

この建物は地元の催し事の会場としても使われているらしい。


夜になるとライトアップされてまた違った雰囲気に。壁の白さが一層際立つ。

(来訪日:2017/09/08)


平戸街道 江迎筋と御厨筋 平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書)

シュガーロード紀行 平戸#003 閑雲亭と烏羽玉

松浦史料博物館の敷地内に、閑雲亭という茶室がある。

平戸藩最後の藩主だった松浦詮(あきら)公により鶴ヶ峰邸と同じ年に建てられたもので、今でも鎮信流のお稽古場として使われている。

これは閑雲亭のしおり。ここにも書かれているが、昭和六十年代に台風で一度倒壊してしまったが再建して今に至るとのこと。

釘を一切使わない特殊な工法で建てられているらしい。この日はまだ残暑の厳しい日だったが、この茶室の中は風が吹き抜けてとても涼しく快適だった。


ここではお茶と平戸のお菓子をいただくことが出来る。

お茶は史料博物館の職員の方が点ててくださる。お茶の作法がわからなくて不安だったが「お好きなように飲んでいただいていいですよ」とのことで安心した。

茶室の中に鎮信流のお茶の頂き方の解説書きもあった。
鎮信流ではお椀を回さず、まずお茶を一口頂き、次にお菓子、そしてまたお茶を頂く…といった感じらしい。

お茶の作法なども一通り知っていたらこういう場所でもまごまごしないんだろうなぁ、などと考えていたらお茶とお菓子が運ばれてきた。

お菓子はカスドースと烏羽玉のどちらか一品を選べる。今回は烏羽玉をいただく。

お菓子の載っている皿にも松浦家の家紋が入っている。
烏羽玉は黒胡麻入りの餡を求肥で包んだお菓子。表面には和三盆がかけてある。和三盆はとてもきめが細かくて、口に入れるとすっと溶ける。初めて食べたお菓子だったがとても美味しかった。

お茶とお菓子を頂いた後、茶室に置いてある印刷物などを見ていたら「東西百菓之図」の見本も置いてあった。お茶を点ててくださった職員の方にお聞きすると、これも資料館の売店で販売しているとのこと。

閑雲亭を出てもう一度売店に行き、東西百菓之図の2冊セットを購入して資料館を後にした。

殿様の茶室でお茶をたのしむ 閑雲亭 

(来訪日:2017/09/08)


平戸街道 江迎筋と御厨筋 平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書)

シュガーロード紀行 平戸#002 松浦史料博物館

松浦史料博物館を訪れる。

やや高台にあり入り口にはオランダ国旗とイギリス国旗が掲げられている。

この場所には、平戸がこれらの国と交易を行っていた時代には藩主の邸宅があり、オランダやイギリスの要人も訪れたとのことで、こうして国旗が掲げられているらしい。

松浦史料博物館は、昭和30年(1955)10月西海国立公園の指定と前後し、松浦家39代陞(すすむ)氏により資料等を寄贈され設立されました。建物は鶴ヶ峰邸と称して明治26年(1893)に建てられた当主の私邸であったものです。

-松浦史料博物館のパンフレットより-

資料館の入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて見学する。

展示物は、松浦家に代々伝わる武具や茶道具、書物や絵画などさまざま。

課外授業で来たらしい小学生の一団が見学していたが、引率の先生の解説がとても分かりやすいのでちょっと離れたところからこっそり聴いていた。
平戸出身の生月鯨太左衛門という力士(身長が2m以上あったらしい)についての解説は小学生たちも興味津々で聴いていた模様。
Wikipedia 生月鯨太左衛門 

伊能忠敬が制作した平戸の地図もあった。
「伊能九州図と平戸街道」を読むと、これは9代目藩主静山が伊能忠敬と懇意だったこともあって特別に譲り受けたものらしい。静山は「甲子夜話」の作者としても有名。甲子夜話も勿論展示してあった。

江戸時代の参勤交代の道のりを詳細に描いた絵図もあった。
平戸藩が参勤交代を行う際は、平戸を出発し、玄界灘、瀬戸内海を通って大阪までの海上を船で行き、大阪の伏見に上陸後は陸路で江戸へ向かったそう。
のちに陸路のみでの参勤交代が行われるようになり、その際には平戸街道、長崎街道が使われたとのこと。

他にちょっと面白いなと思ったのは、甲冑の横に飾ってあった大きな馬印。球を3つ縦に連ねてあって、見た目がまるで巨大な串団子のようにも見えた。

松浦氏の家紋は三ツ星というそうだが、これも見方によってはお団子を3つ並べたようにも見える。

展示物を見終わって、売店で「江戸時代の平戸の菓子」という本と伊能図の平戸の地図の絵はがきを購入する。

展示物は勿論だけど、建物自体も趣があるいい資料館だった。

松浦史料博物館 HP 

(来訪日:2017/09/08)


平戸街道 江迎筋と御厨筋 平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書)

シュガーロード紀行 平戸#001 日本の西の端

平戸市は日本列島本土の最西端に位置する自治体だそう。
福岡から行く場合でも、距離的にはさほど遠くはないのだけどまあまあ行きづらい場所にある。

博多から特急みどりで佐世保まで約2時間。

これはJR佐世保駅前にあった「日本最西端の駅」の碑。
厳密にいうと松浦鉄道のたびら平戸口駅が日本最西端の駅のようだが、JRの駅でいえば確かに佐世保駅が日本最西端になるのだろう。

佐世保からは西肥バスの半急行に乗って約1時間半。

赤い大きな平戸大橋を渡って平戸へ入る。この橋が開通したのは昭和50年。それまでは田平から船で平戸に渡っていたそう。

乗り継ぎの待ち時間もあるので、早朝に博多を出発しても平戸に着いたときには正午を過ぎていた。

バスの終点は平戸桟橋。
降りるとすぐ目の前に海と平戸城が見える。

これは海岸沿いの広場に立つ「じゃがたら娘の像」。

(来訪日:2017/09/08)


平戸街道 江迎筋と御厨筋 平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書)