シュガーロード紀行 平戸#007 平戸松浦氏・平戸と砂糖・鎮信流・百菓之図

シュガーロード紀行 平戸#007 平戸松浦氏・平戸と砂糖・鎮信流・百菓之図

平戸松浦氏

鎌倉時代から明治維新まで平戸を治めたのが松浦氏。その家系は平安時代までさかのぼることが出来る。

松浦氏の系譜については諸説あるが、渡辺綱の子孫とするのが通説。中世には肥前・壱岐の水軍衆である松浦党をなした。(中略)
一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。
Wikipedia「松浦氏」

松浦党の氏族をあげると、相知氏・伊万里氏・佐志氏・有田氏・御厨氏・値賀氏など。
これらは現在も長崎や佐賀の市町村名や地名として残っている。旧肥前国の北部地域一帯は松浦党の勢力圏だったことがうかがえる。

これは平戸城にあった展示物の一つで、松浦家の家系図。
大きなパネル一杯に細かい文字で系図がびっしりと書き込んである。

なお、松浦家の家系は今も続いていて現在のご当主は41代目になるそう。


松浦氏の居城だった平戸城。

この場所には戦国時代に一度城が築かれたが、完成を目前にして松浦氏自らその城を放棄することになる。

松浦藩二十六代 鎮信は 慶長四年 亀岡に「日の岳城(ひのたけじょう)」を築いた。
しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため「日の岳城」を焼却、平戸六万一千七〇〇石と民を守った。

以来約九十年間を「御舘(おたち)」で過ごすが、三十代 棟(たかし)となって一七〇四年「平戸城」の再築を開始、一七一八年完成した。

明治四年廃城となり、昭和三十七年平戸市により復元された。

-平戸城のパンフレットより引用-

※松浦家の歴代当主の中には、隠居後に「鎮信」という名に改名した人物が複数いる。上記に名前のある鎮信は、鎮信流の開祖の29代目鎮信の曽祖父にあたる人物。

平戸城に展示してあった江戸時代の図面。
江戸時代に築かれた平戸城は、山鹿素行のひらいた兵学 山鹿流に基づいて造られた日本で唯一の城でもある。


平戸と砂糖

平戸は日本で初めてポルトガル・イギリス・オランダとの国際貿易が行われた場所で、「西の都フィランド(FIRANDO)」とも呼ばれた。

最初に平戸へやってきた南蛮船はポルトガルの船だったが、この入港の手引きをしたのは、既に交易のあった明(中国)の商人だったという。松浦氏は明やマカオとの交易で多大な利益をあげていたので、南蛮との貿易についても積極的な態度だったらしい。

(ただし、ポルトガルとの交易はキリスト教の布教を巡って対立が激化、地元住民とポルトガル船員の間で殺傷事件も起こり長続きしなかった。ついで訪れたイギリスも交易は行ったものの短期で撤退。最後にやってきたオランダとは宗教的な問題も少なかったため交易は長続きしたが、江戸幕府の鎖国政策により平戸にあった商館は閉鎖、交易の場は長崎出島に移されてしまう。)

長崎より約20年先んじて開始された南蛮貿易により、いちはやく砂糖が入ってきた場所でもあるので、いってみれば平戸こそが「シュガーロードの本当のはじまりの場所」と言えるかもしれない。


鎮信流

江戸時代初期に松浦家第29代目 鎮信(しげのぶ)公によって開かれた茶道の流派。松浦家で代々引き継がれて現在に至っている。鎮信流は “ちんしんりゅう”と読む。

お茶の席には菓子が欠かせないが、平戸には鎮信流が興る以前から中国や南蛮から伝わった様々な菓子があった。藩内で茶道が盛んになるにつれて、平戸の菓子も洗練の度合いを高めていったのだろう。

「江戸時代の平戸の菓子」を読むと、寛政期に平戸城下にあった食品関連の商家は233軒、そのうち31軒が菓子屋(一番多いのは魚屋で55軒)だったとのこと。もともと菓子を好み、多く消費していた土地柄だったことがうかがえる。


百菓之図

松浦家に伝わる「百菓之図」は、平戸藩のお菓子 百種類の製法と絵をまとめた、いわばお菓子の図鑑。お菓子はそれぞれ外観と半分に切った断面図が鮮やかな色合いで描かれている。

百菓之図は数年がかりで作られ、完成したのは1854年(弘化二年)。この時お菓子の製作にあたったのが藩の御菓子司、蔦屋と堺屋。(堺屋という菓子屋は現存しないが、蔦屋は今もお店がある。)

松浦家の奥膳所用に巻物にしたものが一部、御菓子司に渡したものがそれぞれ一部づつ、草稿にしたものを手元用に、計四部があったらしい。

「江戸時代の平戸の菓子」には、非常に小さい図版だがその全体図も収録されている。表面に鶴を描いた真っ赤な菓子、白蛇が巻き付いたような意匠の菓子、どんな色素を使っているのかわからないが鮮やかな青色の菓子など、見たこともないような奇抜なものもある。

名前も面白い。「種ガ島(たねがしま)」「花曇(はなぐもり)」「稲妻羹(いなづまかん)」「水玉羹(すいぎょくかん)」「筆の跡(ふでのあと)」「氷柱巻(つららまき)」など。

百菓之図に収録されたお菓子は、そのすべてがずっと作り続けられてきたわけではなく、もう作られなくなってしまったものも数多くあったらしい。
平戸では近年そういったお菓子の復元活動も行われている模様。

これは閑雲亭にあった「百菓之図 復元菓子」のパンフレット。「百菓之図」の菓子の一部が紹介されていた。
表紙には「烏羽玉(うばたま)」の絵が使用されている。表面にまぶされた粉雪のような和三盆など描写も細かい。



伊能九州図と平戸街道―平戸藩旧蔵絵図収録 (九州文化図録撰書 (4))