シュガーロード紀行 佐賀#010 森永太一郎と江崎利一

シュガーロード紀行 佐賀#010 森永太一郎と江崎利一

肥前さが幕末維新博覧会の開催に合わせて中央大通り沿いに設置されている偉人モニュメント、その中に森永太一郎と江崎利一の像がある。

現在も日本を代表する菓子会社である森永とGlicoの創業者が佐賀から出ていることは、やはりシュガーロードと呼ばれた長崎街道の存在とそれにより育まれた佐賀の豊かな菓子文化が大きく影響していたのではないかと思う。

これは像の傍らに建てられた解説の看板。


森永太一郎は佐賀県伊万里市の出身。
手には森永のミルクキャラメルを持っている。この像はミルクキャラメルを発売した49歳頃の姿だそう。エプロンをつけシャツを腕まくりしているのはお菓子を作るときの姿だろうか。

この像は背が高い。太一郎は身長が180cmあったらしい。幕末生まれの日本人としては並外れて長身だったのではないかと思う。

調べてみると、太一郎の人生は大変苦難に満ちたものだったらしい。
アメリカに渡り人種差別に遭ったりしながらも10年以上製菓技術を学び、帰国後 明治32年に東京で「森永西洋菓子製造所」を開く。自らリヤカーを引いて菓子を売り歩くことも行っていた。

Wikipedia 森永太一郎

ところで、ミルクキャラメルのパッケージに描かれた天使が持っているTMというマーク、これまでずっとトレードマーク(TradeMark)の略号のTMだと思っていたが、森永太一郎のイニシャルを表しているそう。

森永のミルクキャラメルの歴史や歴代エンゼルマークは公式サイトでもみることが出来る。

森永ミルクキャラメル


江崎利一は佐賀市の出身。こちらはグリコを発売した40歳頃の姿。

37歳の時に有明海につながる早津江川河畔で漁師が牡蠣の煮汁を捨てる様子を見て、かつて読んだ薬業新聞の「牡蠣に栄養素グリコーゲンが大量に含まれている」という記事を思い出し、グリコーゲンを使用した栄養菓子の開発に着手。1921(大正10)年に佐賀から大阪へ拠点を移し、合同会社江崎商店を設立。この翌年、40歳の時に栄養菓子グリコを三越で販売。
(看板の解説より)

江崎利一も、貧しい家に生まれ 10代で父を亡くし若くして一家の家計を支えるなど、苦難の多い人生を歩んだ人だった。

伝統的な和菓子以外の菓子自体がまだメジャーな存在でなく栄養学というものもほとんど浸透していなかった時代において、栄養成分を特に重視した菓子であるグリコを生み出したのは大変画期的なことだったと思う。

グリコと並ぶ代表的な商品として昭和8年に発売された「ビスコ」があるが、これもクリームに生きた酵母を入れた、栄養と健康を考えて考案された菓子だった。

後年 江崎利一がよく語っていたのは、仕事を通して社会に貢献するという思いだったそう。

彼の故郷への恩返しでもあったと思うが、佐賀にはグリコの菓子工場があった。
開業は1953年で60年以上の歴史をもつ工場だったが、老朽化や会社の経営上の理由などで2018年12月をもって閉鎖となった。
九州グリコ(佐賀市)解散 2018年12月に工場閉鎖 | 佐賀新聞

Yahooにもこのニュースは掲載されたが、コメント欄には工場の閉鎖を惜しむ声や「長年お疲れ様でした」と労をねぎらう声、工場にまつわる思い出など地元の方からのコメントが数多く寄せられていた。

利一の像が手に持っているのは、大正11年の発売開始当時のパッケージのグリコの箱。
先ほどの解説文のつづきにはこう書かれている。

グリコの顔として知られるゴールインマークは、八坂神社(佐賀市)の境内でかけっこしている子供たちの姿からヒントを経て考案された。

グリコのマークと言えば 真っ先に思い浮かぶのは大阪道頓堀に設置された大きなネオンサインだが、あのマークのルーツが佐賀にあったのはこの解説文を見るまで知らなかった。