シュガーロード紀行 小倉#007 大里・門司・門司港

シュガーロード紀行 小倉#007 大里・門司・門司港

門司駅から大里へ


小倉から少し足を伸ばして門司往還終点の宿場町だった大里にも行ってみたい。
小倉駅から電車に乗り門司駅へ。駅を出て海側に向かって歩く。

この付近が大里(だいり)と呼ばれるのは、その昔壇ノ浦の合戦があったころ、安徳天皇の御所=内裏(だいり)がここに置かれたことに由来しているそう。

大里は大正時代に九州で初めてのビール工場が建てられた場所でもあり、その工場跡は現在、門司赤煉瓦プレイスとして観光スポットになっている。

赤煉瓦プレイスの中を走る通りがかつての門司往還。

現在赤煉瓦交流館となっている建物の横には長崎番所跡と記された小さな石碑が立っている。碑の側面にはこう書かれている。

寛政十一年(1799)、幕府(長崎奉行所)は大里浦出張所をここに設置した。
当時、玄界灘に出没した密貿易船の取締りと、対唐貿易の代物(俵物諸色)を長崎に送る為、保管仲継の基地として設置した。


門司麦酒煉瓦館の傍らには大きな松が。この松は旧街道時代からある古い木らしい。

大里の海岸から眺めた海。
江戸時代には島津氏・鍋島氏などの九州の大名が参勤交代の際にここから本州へ渡っていた。

本州への渡航は黒崎宿からも行われていたが、参勤交代の時期は諸大名の利用が集中し宿場が大混雑してしまうため、その混雑を避けるためにも大里を利用する大名が多かったそう。

大里の海岸近くの街道沿いには、各大名が宿泊所としていた屋敷が立ち並んでいた。
長崎港に上陸し長崎街道をはるばる歩いてきた象も、ここから船に乗り海峡を渡ったと記録に残っている。

門司港駅

さらに足をのばして、今年3月に修復工事が完了した門司港駅も観に行ってみたい。

修復工事にかかった時間は約6年、資料が乏しく大変な苦労があったそうだが大正時代の姿に復元されたとのこと。

これは「0哩(マイル)」の碑。

明治時代に九州に鉄道が開通して以降、ここは九州の鉄道の起点で、当時は「門司駅」と呼ばれていた。旅客や貨物は門司駅までやってくると連絡船に乗り換えて本州へ渡っていた。

その後昭和になり関門トンネルが開通すると、大里にあった駅が門司駅と呼ばれるようになり、旅客・貨物とも門司駅から関門トンネルへ入り本州へ運ばれるようになる。あわせて以前の門司駅は「門司港駅」という名前に改められた。

プラットホームも、傘のついた電球が下がっていてとてもレトロな雰囲気。

外観だけでなく内装も素敵な駅だ。

(来訪日:2019/03/24)