シュガーロード紀行 小倉#006 八幡製鐵所と鐵平糖

シュガーロード紀行 小倉#006 八幡製鐵所と鐵平糖

小倉でも江戸時代から様々な菓子が作られていたが、現在よく知られている小倉銘菓の多くが誕生したのが明治-大正期。

近代小倉の発展は、明治8年(1875年)陸軍の第十四師団が旧小倉城内に置かれたことにはじまる。大きな軍隊の駐屯地であったため次第に軍需産業も盛んになっていく。

また、明治34年(1901年)に官営の製鉄所として操業を開始した八幡製鐵所に代表されるように鉄工業のまちとしても栄えた。

軍都そして工業都市として人口が増え、ちょうど製菓原料の砂糖や小麦粉が大量に流通するようになった時期だったことも重なり、明治から大正頃には小倉でもたくさんの菓子が製造・消費されるようになった。

(実は九州で一番最初の政令指定都市に指定されたのは北九州市。このことからも小倉がいかに人口が多く都市として発展していたかが窺えると思う。)

近代に産業の発展に伴って菓子文化が発展していく様子は、地理的にも非常に近い筑豊地方とよく似ている気がする。

鐵平糖

八幡にある千草ホテルと入江製菓というお菓子メーカーの二社がコラボして生まれた”鉄の味がする”金平糖、その名も「鐵平糖(てっぺいとう)」。
鉄の味がするのは、同じ八幡地区にある八幡製鐵所にちなんで作られたからだそう。

このお菓子の誕生の経緯は是非千草ホテルさんのブログ記事にてご覧いただきたい。
「鐵平糖(てっぺいとう)」誕生秘話|千草ブログ

見た目も少し錆びた赤っぽい鉄の色。

食べてみると…
口に入れた瞬間はちょっと酸っぱい味がする。鉄の味と言われればそんな気もするような…。しばらく口に入れていると甘い金平糖の味に変わってくる。

時代が前後するが、金平糖はスペインのお菓子「コンフェイト」が安土桃山時代に南蛮文化の一つとして日本に伝来したものとのこと。

「肥前の菓子」によると、外国人宣教師が書き残した当時の記録(ルイス・フロイス「大日本史」)には、織田信長にも金平糖が献上され、信長は大変気に入って食べていた様子が記されているそう。

金平糖は伝来した頃から現在に至るまで、その製法はほとんど変わっていない。
ゆっくりと回転する釜の中に芥子の種や胡麻粒など核となるものを入れ、煮溶かした砂糖の液を根気よく掛け続け、数日から1~2週間ほどかけて徐々に大きな粒にしていく。

作るのに大変手間のかかるお菓子で、あの特徴的なツノをきれいに作るには職人の熟練の技と勘が必要とのこと。

九州にも多くあった金平糖の製造会社だが廃業などで次第になくなり、入江製菓さんは現在では数少ない製造元となっている。創業は昭和9年の老舗、金平糖をはじめ様々な飴を製造している。

金平糖の通販サイト いろは屋の金平糖