シュガーロード紀行 塩田#002 塩田川の荷揚場跡
塩田にやって来た。ここは長崎街道の宿場町であり、川港としても賑わった場所。
「塩田宿」の石碑の横には街のシンボルであるえびす様のレリーフもある。えびす様のほっぺがほんのり赤い。
まずは塩田川の荷揚場跡を見に行く。
塩田川は有明海と繋がっていて、潮の満ち引きを利用して船が行き来していた。
荷揚場跡に立つ案内の看板を見ると、天草から運ばれてきた陶石がここに荷揚げされていたらしい。荷揚げされた陶石は塩田川沿岸の地域で陶土に加工された。水車で搗いて陶土にする作業は明治~昭和20年代の農閑期の農家の副業でもあったそう。
加工された陶土は有田や波佐見、三河内など周辺の陶器の産地に運ばれて焼き物の原料となった。陶土が流通する関係で塩田近辺でも窯業が行われていた。
塩田では志田焼、嬉野の近くでも肥前吉田焼という焼き物が造られている。
塩田へ陶石を運んできた船は、帰りには焼き物や米などを運んで行った。
長崎街道は嬉野・塩田・鳴瀬付近で複数のルートに分岐しているが、九州文化図録選書を読むと、この分岐には塩田川が関連しているとのこと。
川は少々の降雨でも増水し、その度に旅人は足止めされていたようである。
江戸時代中頃に、塚崎(武雄)経由の「彼杵通」が設けられた原因とも言われている。(九州文化図録選書2 長崎街道 肥前佐賀路 「塩田宿」より引用)
川があったことで流通の拠点として栄えた塩田だったが、過去には川の氾濫による水害にも度々遭ってきた歴史がある。現在の塩田川は治水工事が行われたので水害は殆ど発生しなくなったが、同時に往時のように川を船が行き来することも出来なくなってしまった。
荷揚場跡付近の水面も、勢いのある水の流れは殆ど見られない。
川港としての塩田津は昭和50年代にその役目を終えている。川岸に残るアーチのような建造物は、船への荷物の積み下ろしの際に使用するクレーンがあった跡らしい。
荷揚場跡のすぐ近くに町並み交流集会所という施設があり、前を通りかかると集会所の方が塩田の町並みと恵比須像のマップを下さった。
(来訪日:2017/11/26)
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