シュガーロード紀行 唐津#004 旧唐津銀行と辰野金吾

シュガーロード紀行 唐津#004 旧唐津銀行と辰野金吾

旧唐津銀行

市街中心部に、ひときわ目を惹くレンガ造りの建物がある。
唐津出身の建築家、辰野金吾の監修により建てられた旧唐津銀行。

明治43年(1910)唐津銀行の移転新築として着工、明治45年(1912)に完成。

建造にあたり、唐津銀行の初代頭取だった大島小太郎は藩校耐恒寮の同級生である辰野に設計を依頼したが、辰野が超多忙だったため弟子の田中実が設計を担当、辰野は監修を行い田中が技師長をつとめていた清水組(現在の清水建設)が施工した。

赤煉瓦に白い石、青銅色の屋根の対比が美しいこの建築様式は、「辰野式」と呼ばれているそう。


内装も、繊細な装飾が施された柱や木製の窓口カウンターなど、建造時のとおりに補修・復元されている。

柱の装飾はアカンサスという植物をモチーフにしたもの。(このアカンサスは敷地内の庭にも植えられている。)

室内を装飾する大きな鏡や一部の窓ガラスは、建造当初からのものが今も使用されている。明治期のガラスは純度が高くなかったので厚めで気泡も入っている。

建物自体がこうして建造された場所にそのまま残っているのも、大東亜戦争時に唐津が空襲を受けなかったことがさいわいしている。

辰野金吾の大きな写真パネルも飾られていた。

旧唐津銀行
http://karatsu-bank.jp/

肥前さが幕末維新博 唐津サテライト館


旧唐津銀行の2階は、今年開催中の「肥前さが幕末維新博」の唐津サテライト館会場となっている。

会場では唐津が生んだ偉人、そして当時国内最大規模の産炭地として唐津とその周辺地域の産業を支えた唐津炭田が紹介されている。
※現在もJR路線として残る唐津線は、もとは石炭を唐津港まで運搬するために敷設された。石炭産業の衰退に伴って今では廃線になっているが、貨物路線が多数存在していたことからも炭田の規模の大きさがうかがえる。

維新から明治にかけての唐津は、産業・経済面でも隣の旧佐賀藩地域とはまた違った近代化の歩みを辿ったことを知ることが出来た。


これは会場でもらったフライヤーとパンフレット。

藩校 耐恒寮

近代の唐津を語る際に忘れてはならないのが、藩の英語学校 耐恒寮とそこで教鞭をとった若き日の高橋是清の存在。(唐津サテライト館の会場でも、高橋と辰野ら 耐恒寮に学んだ生徒たちがマスコットキャラクター化されていた。)

(写真はWikipediaから)

高橋は語学留学のため13歳で渡米するが、一時は奴隷として売られてしまい、過酷な境遇にありながらも英語を習得し帰国した異色の経歴の持ち主。

日露戦争時には英国に渡り、日本の戦時外債の公募にあたって巧みな交渉で巨額の戦費調達に成功した功績で知られている。のちに日銀総裁・大蔵大臣・内閣総理大臣も務めた。(なお亡くなったのは1936年/昭和11年 2月26日。二・二六事件で暗殺されている。)

高橋が唐津へ英語教師として赴任したのは日本に戻ってきて3年目、18歳の時。

会場で上映されていた映像でも紹介されていたが、高橋が行ったのは”実際に話せる”ための英語教育で、授業の一環として生徒を引き連れて唐津の港に出向き、寄港した外国船の船員たちと英語で会話させたりしていたらしい。

これは当時耐恒寮があった場所を示す石碑。旧唐津銀行から歩いて数分の場所にある。

耐恒寮の教壇に高橋が立ったのはわずか1年ほどの間。これは耐恒寮自体が約1年で無くなってしまった為。

しかしこの1年の間に耐恒寮に学んだ生徒の中には、辰野金吾の他にも同じく日本の近代建築に大きな業績を残した曽禰達蔵、早稲田大学の2代目学長となった天野為之、のちに唐津銀行頭取となり建物の設計を辰野に依頼する大島小次郎などがいた。

辰野と曽禰はその後相次いで上京、工部大学校(のちの帝国大学工科大学)に入学しイギリス人建築家ジョサイア・コンドルに師事、辰野はイギリスにも留学し本場の西洋建築を学ぶ。

曽禰達蔵は日本最初のオフィス街と言われる「丸の内三菱オフィス街」をはじめオフィスビルを多数設計、辰野金吾は東京駅、日本銀行本店・大阪支店・京都支店、旧両国国技館、奈良ホテルなどを設計、共に日本の近代建築の礎を築くことになる。


これは佐賀市の維新博会場までの大通り沿いに設置されている偉人モニュメントの曽禰達蔵と辰野金吾の像。

※2019 付記
この曽禰達蔵と辰野金吾の像は、のちに旧唐津銀行にも同じものが設置された。

(来訪日:2018/07/06)