シュガーロード紀行 小倉#005 森鴎外と小倉日記

大正12年に小倉で創業した菓子舗、つる平が販売しているお菓子、「小倉日記」。
商品名は、 明治時代に軍医監としてこの地に赴任した森 林太郎=森 鴎外の同名の著作に由来する。
パッケージデザインもレトロでいい感じ。


小ぶりなバウムクーヘンの中にクリームが入っている。
(何故バウムクーヘンなのかというと、鴎外が留学したドイツのお菓子に因んで、とのことらしい。)

商品自体は昭和40年代に販売されたものなので、昔ながらの伝統的な菓子ではないが、食べてすごく美味しかったお菓子なので紹介しておきたい。
小倉北区にある鴎外旧宅の来訪記はいずれまた改めてUPする予定。

つる平 | 北九州銘菓 「ぽんつく」 「小倉日記」 

シュガーロード紀行 小倉#004 軍都小倉と湖月堂の栗饅頭

湖月堂 喫茶去


旧門司往還沿い、魚町商店街の中にある湖月堂本店。
店舗の隣にはゆったりした飲食スペース 喫茶去が併設されている。

店名を聞くと喫茶店なのかな?と思うが、食事メニューも充実していてお食事処も兼ねている感じ。

ここでおやつセットを頂く。飲物はコーヒー・紅茶・お抹茶、お菓子は和風・洋風から好きな組み合わせで注文できる。
写真はお抹茶+和風お菓子。ちょっと意外な取り合わせだったがアールグレイ味のマカロンが特に美味しかった。

湖月堂の栗饅頭

北部九州民にはTVCMでもおなじみ、湖月堂の栗饅頭。

日清日露戦役の頃、勝栗を包み「栗饅頭」として発売したところ、その趣向が当時の戦勝を願う風潮に受け入れられたこともあり、広く皆様にご愛顧を頂きました。
以来、「栗饅頭は湖月堂」として、弊社の代表銘菓になっております。
(湖月堂HPの商品紹介より)

戦時の縁起物が元となり小倉を代表する菓子となった経緯が面白い。

「湖月堂」という店名も、店主と親交のあった陸軍の師団長に命名してもらったものだそうで、軍都だった小倉ならではのエピソードという感じがする。

店頭では大きいサイズと小さいサイズが売られていたが、今回は小さいサイズを購入した。

中には栗を練り込んだ餡と蜜漬けの栗が入っている。表面の栗の皮のような茶色のつやつやは卵黄を塗って焼くことで形成されるそう。
餡も皮もしっとりとしていて程よい甘さのお饅頭だ。

(来訪日:2019/03/24)

シュガーロード紀行 小倉#003 小倉駅周辺に残る門司往還の痕跡

常盤橋を渡って東側、京町の商店街の入り口には参勤交代往還路(門司往還)を示す標識がある。
門司往還は常盤橋から門司方面へと向かう約16kmほどのみじかい街道。

門司往還は真っ直ぐ小倉の市街中心部を横断している。
京町・魚町のアーケード街の一部は、大村や飯塚と同じく、街道だった道筋がそのまま商店街になっている。

商店街を抜けて小倉駅前の大通りへ。

商店街出口からの横断歩道は門司往還の道筋を示しているらしい。

この横断歩道を渡った先にはコレットという大きな商業施設があるが、この建物は門司往還の真上に建っていることになる。

コレットの東側の出口正面には参勤交代往還路について解説する看板も建てられている。

看板の向こう側に真っ直ぐ続いている通りがかつては門司往還だった道。

googleMAPで見るとわかりやすい。

図中赤の点線で示したのが門司往還、先ほどの駅前の横断歩道が図中Aの箇所、Bが参勤交代往還路の看板。コレットの建物内の通路も旧街道の道筋とぴったり重なり合う直線になっているのが面白い。

シュガーロード紀行 小倉#002 常盤橋周辺の旧街道

常盤橋は長崎街道だけでなく、唐津街道・秋月街道・中津街道・門司往還の起終点でもあり、言ってみれば江戸時代における九州の交通の頸動脈のような場所だった。


地図で見るとこんな感じ。
江戸でいうところの日本橋みたいな感じだろうか。

常盤橋周辺の旧長崎街道には、こんな標識が埋め込まれている。
あと戻りするかたちになるが、常盤橋の西側を街道の標識をたどってちょっと歩いてみたいと思う。

常盤橋の手前、室町の通りは道幅も狭く街道だった頃の面影が残っている。
(画面中央 奥に見えるのが常盤橋。)

「小倉縣廰ノ址」の石碑。小さい石碑なので気づかずに通り過ぎそうになった。

“縣廰”は県庁のこと。昔は小倉県というのものがあったらしい。調べてみたら明治四年から明治9年まで存在していた模様。
Wikipedia 小倉県


そのすぐ近くに、小倉県庁だった建物の一部も残っている。
今はお店が入居して営業していた。


ちょっと横道にそれたが旧長崎街道にまた戻る。

通り沿いにある建物の一角には「長崎街道ギャラリー」という展示コーナーもあり、発掘調査の際に出土した古銭や陶磁器などが展示されていた。日本各地、さらには海外の様々な陶磁器を見ることができる。

飯塚で見た黒ポストがここにもあった。

そしてここは長崎街道と唐津街道の合流点だった交差点。今では住宅の間の静かな通りとなっている。

(来訪日:2019/03/24)

シュガーロード紀行 小倉#001 小倉城と常盤橋

春先の某日、小倉にやってきた。
まずは小倉のシンボル、小倉城を訪れたいと思う。


小倉に最初に城を築いたのは戦国時代に中国地方を支配していた毛利氏。
関ヶ原の戦いの後、この地の領主となった細川忠興によって天守閣を持つ小倉城が築城された。

細川氏はこの後肥後熊本に配置替え、代わって譜代大名の小笠原氏が藩主となり以後幕末まで小笠原氏がこの地を治める。(本州への接続地・九州の要でもあったこの場所を譜代大名に守らせたいという幕府の思惑があった為らしい。)

天守閣は天保年間に火災により焼失、その後幕末の長州征討の際に小笠原氏自らが城を燃やしてししまう。

現在の天守閣は昭和30年代に再建されたもの。
天守閣の最上階が出っ張った「唐造」という珍しい構造になっている。城の内部は細川氏・小笠原氏や小倉の歴史に関する史料が展示されている。城内には小倉城庭園や八坂神社もあり、散策をするのも楽しい。

常盤橋

小倉城のすぐそば、市街中心を流れる紫川に架かるのが常盤橋、ここが長崎街道の起終点。

1611年、筑前六宿が整備された。 遅くとも1624年9月までには、橋が架けられた(細川藩日帳)。

当初から幕末まで大橋と呼ばれ、元禄からは常盤橋とも呼ばれるようになった。参勤交代や外国文物・産品の往来のほかに、武士が多く住む西曲輪と町人が多く住む東曲輪を結ぶ橋として、上流にある豊後橋と共に使われた。

明治時代、県の直轄管理(1881年)となり、鉄橋(1889年)となったが、上流に勝山橋、紫川橋ができると、その役割は小さくなっていった。

Wikipedia「常盤橋」

現在の橋は1995年にかけ替えられたものが、橋の西岸のたもとには江戸時代の橋で橋脚に使われていた石も置いてある。

昔の荷揚げ場も復元されている。


常盤橋は伊能忠敬の九州における測量の開始地点でもあったことから、東岸には「伊能忠敬顕彰碑」も設置されている。

顕彰碑のある場所からは、ちょうど株式会社ゼンリンの「地図の資料館」が入っているビルも見える。今と昔の、それぞれ日本の地図作成の第一人者的存在が一つの風景に収まっているのは何だか感慨深い眺めだ。

(来訪日:2019/03/24)

ユメノマタ夢 書ヲ捨テ街二出ル探訪ノ会 第零回開催レポート

2019年3月16日、ユメノマタ夢 発足会として第零回イベントを開催しました。

記念すべき初めてのイベント、かつ夢野久作氏の命日3月11日に近い開催だったこともあり、久作氏のお墓参りと福岡で最も古い歴史を持つカフェブラジレイロでの昼食会を行いました。

【当日のタイムテーブル】
10:30~10:45 地下鉄呉服町駅 集合
11:00~ 夢野久作の墓に墓参
11:30~ 昼食・会合

一行寺

地下鉄呉服町駅に集合後、歩いて博多区中呉服町にある一行寺へ。
ここに夢野久作の眠る杉山家の墓所がある。

一行寺は文安元年1444年、室町幕府三代将軍足利義満の血を引く照阿上人により開山された浄土宗のお寺。
久作の命日(3/11)には数日遅れたけれどお墓参り。

(現在も杉山家の方々の墓所であり非常にプライベートな場所だと思うので、ここではお墓の写真は掲載しません。ご興味のある方は是非実際に墓参に行ってみてください。)


一行寺前の電柱には、博多リバイバルプランさんによる「はかた博物館」のこんな掲示も。
以下掲示文の内容を引用。

「杉山茂丸翁七十二年の生涯は策士黒幕としての一生であったが、その策は近頃の策士に見るようなこそこそしたものではなく、着眼点の大きい大策士であった」
逝去翌朝の昭和十年七月二十日付福岡日日新聞記事

「玄洋社葬のとき、頭山満が男涙を流し続けていたのが見ていられなかった…」と息子・夢野久作は綴った。

博多では、「目が覚めているのかどうか分からない夢うつつのボーとしている人」を「夢野久作さん」という。

夢野久作(明治二十二年-昭和十一年)は、父・杉山茂丸に「夢野久作さんの書いたごとある」と自作の小説を評されて、ペンネームにしたという。

日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる畢生の奇書「ドグラ・マグラ」をはじめ、怪奇色と幻想性の色濃い作風が夢野久作的。

福岡日日新聞は、現在の西日本新聞社の前身だった会社のひとつ。

(1942年、福岡日日新聞と九州日報社が合併して西日本新聞社となる。なお九州日報は頭山満が創業した福陵新報としてスタートした会社。夢野久作は九州日報の記者をつとめながら執筆活動を行っていた時期もある。)

カフェ・ブラジレイロ

一行寺に墓参した後はランチを食べに博多区店屋町のカフェ・ブラジレイロへ。

このお店は現在福岡で営業する喫茶店の中では一番長い歴史を持つお店。
創業は昭和9年。当時は東中洲の那珂川沿いに2階建ての店があり、夢野久作もブラジレイロをよく訪れていたそう。


人気のメンチカツレツは既に売り切れだったので各々オムライスやハッシュドビーフを注文。オムライスはレギュラーでもこのボリューム。


ランチメニューには小さなカップでコーヒーがついてくる。生クリーム入り。なおハッシュドビーフにはエスプレッソが付く模様。

(お昼の時間帯はかなり混雑するので確実に食べたい方は少し早い時間帯に入店するか予約をおすすめします。)

断片的だけど当日の会合での会話で印象に残ったことをいくつか。
普段の読書について、ミステリー作家について、好きな作家や作品にまつわる聖地巡りの体験談、「ドグラ・マグラ」がどうしても最後まで読み通せない、サピエンス全史について、など。

お会計の時、レジ前に大刀洗平和記念館で開催中の杉山四代(灌園・茂丸・夢野久作・龍丸)の企画展「民ヲ親ニス」のちらしが置いてあるのを発見、一枚頂いてお店を出る。

ここで会は一旦お開きに。

この後一人で少し歩いて初代ブラジレイロのあった場所も見に中洲へ行ってみる。


西大橋のたもとには、原田種夫による「思い出の記」が記された石碑が設置してある。

那珂川沿いの遊歩道には他にも「文士 原田種夫の栞」や大正時代の那珂川周辺の地図や写真を配したモニュメントも。

第零回開催を終えて

ほぼ主催者の思い付きだけで走り出した感のあるこの会、第零回を開催してみて色々と問題点や改善すべき点があることに気付いたので、今回の反省も踏まえてまずはそれらを解決するのが今後の課題です。
参加する方全員に楽しんでもらえるような企画の目処がついたら次回を開催したいと思います。
※このブログ記事はtwitterに投稿した開催レポートを再掲・一部加筆したものです。