夢野久作「少女地獄」についての断片的考察

第一話「なんでもない」

作中に登場する耳鼻科医のモデルは夢野久作の義弟にあたる石井舜耳氏と推測される。
石井氏は横浜で耳鼻科医院を開いていたが、作品に登場する臼杵医院の所在地も同じく横浜。耳鼻科関連の知識も彼から得たと思われる。この石井氏と妻(=久作の異母妹)は久作と特に親しい間柄だったことに加え、探偵小説好きだったこともあり、新青年応募前の「あやかしの鼓」を読ませて意見を聞くなど、作家としての夢野久作の姿も間近で見ていた人物といえる。

東京で久作が急逝した際、急ぎ駆け付けた近郊の身内のなかで、医師資格を持っていた故に図らずも彼の死亡確認を行うことになったのもこの石井氏だったとのこと。久作との交流や没後の回想は「怪物夢久の解剖」「久作の死んだ日」等に書き遺されている。

第二話「殺人リレー」

作品の舞台は福岡及びその近郊。作中にはバスの走るルートとして「筥崎」「多々羅」「香椎」「折尾」などの地名が登場する。また車道と交差する鉄道は現在の鹿児島本線と考えられる。
(なお箱崎水族館喫茶室店主さんに伺ったお話しによると、作品が書かれた当時、箱崎地区で実際にバスが走行していたのが現在の妙見通りとのこと。)
福岡市でバスの運行が始まったのは昭和2年、8人乗りで走行区間は西公園-博多・箱崎だった。
「殺人リレー」の発表は昭和9年。バス車掌という仕事が非常に先鋭的な存在だったことも窺える。

参照:福岡県立図書館 福岡市近代史略年表
https://lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/kindai/nenpyou3.htm
参照:明治・大正・昭和(戦前)の福岡市街地図
https://lib.pref.fukuoka.jp/hp/tosho/kindai/index.html#select2

バスについて、作中には「一九三二年型のシボレー」とあるが、西鉄WEBミュージアムの歴代車両図鑑 1930年代のページを見ると「6〜12人乗りのフォードやシボレーなどのアメリカ車が主流であった」との記載がある。
下記ページには当時使用されていたシボレーの画像も掲載されている。
https://nnr.co.jp/museum/buss/01.html

第三話「火星の女」

この物語の主人公、人並外れた運動能力と恵まれた体格を持つ女学生 甘川歌枝のモデルは、日本女性初のオリンピックメダリスト 人見絹枝。(1907/01/01-1931/08/02)

当時、女性が陸上競技を行うことに対しても”冷たい視線”を向けられ、理解が得られ辛い環境だったことが人見の回想からも窺われる。
作品後半で主人公は大阪の新聞社への就職が決まるが、人見も大阪毎日新聞社へ入社、運動部に配属された経歴がある。また、人見は度重なる競技会出場に加え新聞社の仕事、寄付に対する御礼の活動等で体調を崩し、肺炎により24歳の若さで病没している。
参照:Wikipedia 人見絹枝

Twitterにて杉山満丸氏にいただいたリプライによれば、「人見絹枝が政治に利用されてかわいそうという想いから祖父が書いたと父(=杉山龍丸氏)から聞きました」とのこと。

作中に登場する”天神の森”は現在の水鏡天満宮付近に広がっていた森、森栖校長らが乱痴気騒ぎを繰り広げる温泉旅館は二日市温泉に実在する某老舗旅館と推測される。

創作の元となった出来事の一つが福岡で昭和8年に起きた”黒焦げ死体事件”。
糟屋郡須恵村の火葬場で黒焦げになった少女の死体が発見される。その後の捜査で被害者は脳膜炎を患い障害を持つ少女、犯人は彼女の養父と判明。多額の養育費に目が眩み引きとったものの、養女の存在が苦になり殺害、他殺と見せかける為に遺体を黒焦げにし遺棄した事件だった、とのこと。

 

その他附記

【実在事件とのリンク】
第3話「火星の女」だけでなく、第1話「なんでもない」第2話「殺人リレー」についても、久作が創作の着想を得たと思われる事件が実在する。

偽伯爵令嬢事件→「なんでもない」
昭和10年4月博多住吉の旅館で起こった事件。
嘉穂郡山田町の料理屋酌婦が自身を伯爵令嬢と騙り料金未払いのまま旅館に長期滞在、知人の侯爵から大金を受け取る、と護衛の巡査まで動員させて下関へ赴いたところで嘘がばれる。

偽検事結婚詐欺事件→「殺人リレー」
昭和5年 九州帝大法学部の学生 西田某は「卒業後は東京で検事に任命される」と騙り、婚約者の福岡県椎田町の女教師に多額の金を使わせる。西田の卒業後盛大な見送りを受け2人は東京へ旅立つが西田検事なる人物は存在しないことがわかり男は婚詐罪で逮捕される。

地元で起こる様々な事件を元に数多くの作品を書いたのは、新聞記者でもあった久作ならではの創作方法と言える。

【”地球”と呼ばれた少年・ “火星”と綽名された少女】
夢野久作の少年時代の綽名「地球」の由来は、既成の帽子が合わない程に頭が大きかったから、というのが通説だが、杉山龍丸著「わが父・夢野久作」には以下のような記載がある、
当時彼の父 杉山茂丸は二度にわたり渡米し、J.P.モルガンから巨額のドル借款を取りつけ日本興業銀行の設立を目論んでいた時期だったが、茂丸に反対する人々が「団々珍聞」なる雑誌を作り茂丸の悪口を多く載せたそうで、その表紙に描かれていたのが手足の生えた大きな地球だった。これが有名になり福岡にまで伝わって、茂丸の子である久作に「地球」というあだ名がつけられたとも考えられる、と。

第三話の主人公、甘川歌枝の綽名は「火星さん」。
否応なしに周囲から突出してしまう自己に対し、自分だけがみんなと違う、まるで異星人であるかのような疎外感・孤独感を感じていた少年時代の体験が、同じく人並外れた能力を持つが故に孤立し苦悩する主人公の姿に投影されているとも考えられる。

【本の出版は作者の没後】
全3話の中で、生前に発表されたのは「殺人リレー」のみ。
他2話を加え、黒白書房より「かきおろし探偵傑作叢書」の第一巻として「少女地獄」が刊行されたのは昭和11年3月20日、その9日前に久作は急逝している。


夢野久作「少女地獄」は青空文庫でも公開されています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card935.html

参考文献・資料
夢野久作の世界/西原和海 編
わが父・夢野久作/杉山龍丸
快人Q作ランド/夢野久作展実行委員会
福岡ミステリー案内 赤煉瓦館事件簿/福岡市総合図書館文学・文書課

ユメノ銀河

公開時に映画館で観た映画を久しぶりに観る。

浅野忠信がこんなに細面で怜悧な顔立ちだったかと驚いた。
小嶺麗奈もとても可愛い。可愛いんだけど、終始張りつめた表情をしている。全編を通して見ても(友達と一緒に居るときに、僅かに微笑むことはあっても)笑顔のシーンは殆どない。

そして2,3シーン 短い時間しか登場しないのに嶋田久作の存在感が凄い。冒頭の、着物を翻してトンネルの闇に消えていく姿が印象的。

台詞が多いわけでもなく、表面的には静かなモノクロの映像が続いていく。
だけどそれは、登場人物たちの激しい感情を押し殺したような緊張感を絶えず孕んでいる。


公開時、映画館でパンフレットを買った記憶があるんだけど、探しても無い。
処分することはない筈だけど何処かに行ってしまったらしい。

手許になければ、何故か一層惜しい物のような気がしてきて、ネットオークションで探して入手した。

原作の少女地獄は昭和10年頃に書かれた作品だが、この映画では時代設定を昭和30年代に変更してある。舞台となる街も或る地方都市というだけで詳細な場所の特定もなされていない。(が、「玄海港行き臨時列車」など北部九州を想起させる地名は出てくる。)
パンフレットにはその架空の街とバスの路線図も載っている。

三苫鐡児氏(久作の次男)も寄稿されていた。添えられた肩書は”夢野久作・杉山茂丸 研究者”となっている。

ロケ地が何処だったのかがすごく気になっていたのだが、ほぼ関東だったようで九州では撮影は行われていないらしい。エンドロールには大井川鉄道の文字があったので鉄道関連のシーンの撮影についてはその路線が使用されたのかもしれない。
特に気になるのはラストシーンの海岸なのだが、それについては特に書かれていなかった。

海岸と言えば、映画版の「ドグラ・マグラ」で一郎が絵巻物に見入るシーンの海岸も何処なのか気になる。あの海岸も岩の形がすごく特徴的だった。

100年前のパンデミック スペイン風邪と夢野久作

※比較年譜の制作にあたっては、西日本新聞電子版「スペイン風邪、猛威の記録 100年前の記事で新型コロナと比べてみた」(2020/03/22) の記事、「夢野久作-あらたなる夢-」河出書房新社/刊の「夢野久作 年譜」(西原和海氏 編) を参考にしました。

★:夢野久作(杉山泰道)に関する出来事
●:スペイン風邪・世界情勢等に関する出来事

【大正七年/1917】久作28才

★この年還俗。杉山農園に戻る 短歌グループ「浅香会」に参加
★1918.03 雑誌黒白創刊、杉山萌円・青杉居士等の名で小説・エッセイ等寄稿

●1918.03 スペイン風邪第1波発生 アメリカで流行

【大正八年/1918】久作29才

★1918.02 鎌田クラ嬢と結婚
★1918.09 杉山萌円名義の初著作出版

●1918.秋~  スペイン風邪第2波発生 10月上旬から日本全国に感染拡大
●1918.10.10 福岡県内初の患者が発生
●1918.11.11 第1次大戦の停戦協定が発効

★1918.11.24 九州日報に短歌発表
~1919.06まで断続的に掲載

●1918.12.01付 福岡日日新聞〈感冒漸く減退 福岡県下の患者一時は六十万人に達す〉

★この年喜多流の謡曲教授になる

【大正九年/1919】久作30才

★1919.04.21 九州日報に童話「正夢」発表
★1919.04.24 九州日報社に記者として入社
※加藤介春(「山羊髯編輯長」の津守編輯長のモデル)との出会い

●1919.春~秋 スペイン風邪第3波発生

★1919.05.26 長男 龍丸 誕生
★1919.05.28 九州日報に自筆漫画を添えた「時事漫画」発表
~1919.06.29号まで断続的に掲載

●1919.10 下旬から再びスペイン風邪流行、
※20年1月に患者数・死者数ともピークに達する

【大正十年/1920】久作31才

●1920.01.07付九州日報〈新年来ますます猛烈を極める〉1~5日の死者が104人に上ったと報道。
●1920.01.07付九州日報 全国各地の日本軍師団での患者数が計1万2千人に上ることを伝える。
●1920.01.11付九州日報 福岡県下の巡査教習所や筑豊地方の炭鉱で流感がまん延
●1920.01.16付九州日報 門司市の警察署長が映画館や劇場の館主に対して〈「予防口蓋」を着用せざる者は入場を拒絶すべき用訓示〉
●1920.01.19付九州日報 〈看護婦が足らぬ〉
●1920.01.19付九州日報 〈火葬場の如きも市内公私合わせて十五竈を有して居るが之が又毎日満員で、現在の調子で死亡率が増えたらやむなく棺を一日止めなければなるまいとの事〉
●1920.02.01付九州日報 〈終息に近づく〉〈流行の当初最も猖獗を極めし炭鉱地方に於いては其後予防注射の励行マスクの奨励等によりて只管其の予防に努めたる結果(略)漸次終息に向かえるもののごとし〉
●1920.02.14付九州日報 〈県下の流感ようやく衰ふ〉
●1920.05.14付九州日報 福岡県筑後地方で〈先月末より流行性感冒再燃・縣當局より救護班急派〉

★1920.05. 長編探偵小説「呉井譲次」を雑誌黒白にて連載開始
★1920.09. 「呉井譲次」→「蝋人形」に改題

【大正十一年/1921】久作32才

★1921.01. 「蝋人形」未完のまま連載中止。
※昭和8年に「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」として再生

★1921.12.06 九州日報に童話「犬の王様」発表


第一次世界大戦と世界の流行

●1907年頃 1918年型インフルエンザ(スペイン風邪)の前駆体が発生

●1914.07.14 第一次世界大戦 勃発

●1916 フランス・エタプル駐屯地のイギリス陸軍内でスペインかぜと症状が類似する致死率の高い新種の病気が流行

●1918.03 スペイン風邪第1波 アメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行

●1918.秋~ スペイン風邪第2波 世界中で同時期に発生、病原性が強まり重篤な合併症を起こし死者が急増

●1918.11.11 第一次世界大戦 停戦協定発効

●1919.春~秋 スペイン風邪第3波 世界中で流行、医師・看護師の感染者が多く医療崩壊が発生し更に感染拡大

※独・英・仏・米では第一次世界大戦時の検閲で報道が最小限に抑えられたのに対し、中立国だったスペインの状況は大きく報じらる

※1918.01~1920.12の間で世界中で5億人が感染(当時の全世界の人口の1/4に相当)
死者数:1,700万人~5000万人、1億人とする推計も


日本国内の流行

●スペイン風邪 第1回流行期 1918.08~1919.07
全国での患者数:約2117万人 死者:約26万人 死亡率:約1.2%

●スペイン風邪 第2回流行期 1919.08~1920.07
全国での患者数:約240万人 死者:約13万人 死亡率:5%以上

開催レポート:ユメノマタ夢 第壱回読書会「私の好きな夢野久作作品」

7月27日、ユメノマタ夢としては初の読書会を開催いたしました。
テーマは「私の好きな夢野久作作品」。
課題図書を読み討論する形式ではなく、各々がテーマに沿って好きな本を持ち寄り紹介する形式の読書会です、

今回の読書会で取り上げたのは以下の作品です。

● お茶の湯満腹談
● 三つの眼鏡
● お菓子の大舞踏会
● ビルディング
● 少女地獄

※夢野久作の作品は「青空文庫」でも読むことが出来ます。
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person96.html


エッセイ・童話・心理劇的短編等、色々なジャンルの作品が集まり、様々な観点から夢野久作作品の魅力について語り合えた回となりました。
紙の本だけでなく、kindleやスマートフォンを使用し電子書籍で読まれている方が多かったのも印象的でした。

今回ご参加頂いたのがお着物や茶道にもお詳しい方々で、それらについても興味深いお話が伺えましたのが楽しかったです。

参加頂きました皆様、ありがとうございました!

水鏡天満宮/夢野久作「少女地獄」- 火星の女

 

昭和通り、西中島橋そばの交差点角に立つ福岡市文学館(旧日本生命保険株式会社九州支店)。
そのすぐ隣が水鏡天満宮。(写真右側に天満宮の鳥居が写っている。)

こちらはお社の裏側の参道入り口になる。

鳥居の扁額の「天満宮」は黒田家13代目 黒田長成氏の揮毫。

表側の参道は明治通りに面している。道を挟んで真向かいにアクロス福岡がある。

こちらの鳥居の扁額は、福岡出身の政治家で内閣総理大臣も務めた広田弘毅が、小学生(!)の頃に揮毫したものだそう。

以下は参道入り口に立っている案内板の文章。

菅原道真を祀る神社です。
社殿によれば、延喜元年(901年)京都から大宰府に赴任途中の菅原道真が、四十川の清流を水鏡にして自らの姿を映した場所に、後に社殿を建て、水鏡天神または容見(すがたみ)天神と呼びました。
慶長17年(1612年)には、福岡藩初代藩主黒田長政がこの地に移し、二代藩主忠之が社殿を再建したとされます。
福岡の繁華街「天神」の地名は、この神社にちなんだものと言われています。

長政公がこの場所にお社を移したのは、福岡城から見て丑寅にあたる方角の鬼門封じのためだったと伝わっている。
移される前は、現在の中央区今泉あたりにお社があった。

天満宮なのでお社の前に牛さんがいる。

そして狛犬。比較的新しい。
ここの吽の狛犬には頭のてっぺんに角が生えている。

お社の朱色と周囲の木々の緑色のコントラストも美しい。


「少女地獄」の第三話「火星の女」の中には、この水鏡天満宮と思しき場所が登場する。

そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。
却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。
校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗の町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……

 火星の女

文中には「天神の森」という言葉が出てくるが、現在の水鏡天満宮周辺は市街中心部でビルや大通りに囲まれていることもあり、森というほどの木はもう残っていない。


ところでこの「火星の女」は、実際に起こった事件を基にして書かれた部分もあるそう。

( 黒焦げ死体事件: 昭和8年、現在の糟屋郡須恵町の火葬場で12~13歳の少女と思われる半黒焦げの遺体が発見される。9日目に少女の養父による犯行と判明。)

また、物語の主人公「火星さん」は、日本人女性初のオリンピックメダリストとして活躍しつつも、昭和6年に24歳の若さで病没した 人見絹枝 がモデルだったらしい。

 


「ドグラ・マグラ」はなぜ読まれづらいのか

以前から気になっていたことがある。
「ドグラ・マグラ」は何となく読まれづらい、読了されづらい傾向があるということだ。


読書会でお会いした方や普段から本をよく読むという方とお話しする機会があったときに「ドグラ・マグラを読んだことがあるか」という質問をした際、返ってきた答えは

・そもそもドグラ・マグラを知らない
・名前は聞いたことがあるが読んだことはない
・読みかけたが途中で挫折した

といった意見が殆どで、最後まで読んだという方は1、2名だった。
本好き、読書好きの方達のあいだでも読まれづらい傾向にあるのではないか。

Twitterでもアンケートを行ってみることにした。
結果はこちら。
(回答にご協力いただいた皆様ありがとうございました。)


私が設定した選択肢にも問題があったので回答結果がやや偏ったものになった感もあるがそれはちょっと置いておいて、このアンケート回答も参考に、冒頭に提起した課題を考えてみたいと思う。


【読まれづらくしている要因は何なのか】

要因として考えられるものを挙げて考察してみたいと思う。

  1. 装丁や表紙、キャッチコピー
  2. 地方色が強い(地名・方言等)
  3. 長い
  4. 物語の構成が複雑、物語全体の時間の流れが掴みづらい

【 1.装丁や表紙、キャッチコピー】

作品単体で読める本として現在一番多く市場に出回っているのは角川文庫版の「ドグラ・マグラ」だろう。

表紙に使用されているのは米倉斉加年氏による絵(記事冒頭の写真)。
繊細で美しいが、同時に異様な妖しさ&怪しさを醸し出している絵だ。人によってはこの表紙絵であるがゆえに、手にとるのも躊躇う人もいるのではないか。

実際、アンケートの際にも「表紙を『かまわぬ』みたいな柄にするだけで、読者が100人くらい増えるのではと思っている」というご意見があった。
(そういった読者の意向を汲んでかどうかは不明だが、「少女地獄」など角川文庫版夢野久作作品は、従来の米倉氏装画から模様柄の表紙へ変更されているものもある。)

文庫本の場合、表紙の次に視線が行くのはカバーや帯に書かれた文だと思うが、角川版のカバー文は以下のようになっている。

「ドグラ・マグラ」は、昭和10年1500枚の書き下ろし作品として出版され、読書界の大きな話題を呼んだが、常人の頭では考えられぬ、余りに奇抜な内容のため、毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない。
(中略)
これを読む者は一度は精神に異常をきたす伝えられる、一大奇書。

”読む者は一度は精神に異常をきたす”というのは、「ドグラ・マグラ」がどんな本なのかを紹介する際に最もよく使われているキャッチコピーだと思う。

このキャッチコピーの元となったのは作品中にある以下の一節だろう。↓

これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。
そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと云っております。(ドグラ・マグラ本文より)

作者はある種のユーモアも交えてこう表現したのだと思うが、後年この一節がやや誇張されてしまい、「ドグラ・マグラ」に対する何だかおどろおどろしい先入観が形成される要因となっているのではないだろうか。

※但し、この表紙やキャッチコピーに惹かれて「ドグラ・マグラ」を手にとる読者も存在すると思われるので、一概にマイナス要因になっているとは言えない気もする。


【 2.地方色が強い(方言等)】

作中には福岡の地名や地元の方言も出てくるが、作品全体から見ればそういった地方色の強い記述が占める量は多くはないし、福岡地方の方言もさほど難解なものでもないので、これが読者を遠ざける大きな要因になっているとは思えない。

むしろ夢野久作品における地方色の強さは、イコール作品の特色・魅力となっているのではないか。


【 3.長い 】

作者からすれば、作品を構成するために必要な要素を盛り込んでいたら最終的に出来上がった作品がこの長さになってしまったわけなので、これについては論じても仕方がない気がする。
また、原稿用紙換算何百枚分くらいの作品からを「長い」と感じるかは、読む人によって個人差もあるだろう。

ただ、長編になればなる程、途中で放棄する人も増加する傾向にあることは確かなので、読了の難易度をあげている要因の一つにはなっていると思う。


【 4.物語の構成が複雑、物語全体の時間の流れが掴みづらい 】

作品は当初「私」の視点から語られているが、途中で膨大な量の資料を挟んだり、その資料の構成も複雑で資料の中にさらに資料が入れ子になっていたり、語り手が複数登場し頻繁に入れ替わっていたり、時間の流れが曖昧になる箇所があったりで、それらが多くの読者を混乱に陥れる原因になっているのではないか。

個人的には、これがドグラ・マグラを読みづらくしている一番の要因だと思う。


【 「ドグラ・マグラ」の構造を図にしてみる 】

作品全体の構成が複雑であるのなら、図として可視化すれば少しは分かりやすくなるのでは?
ということで、「ドグラ・マグラ」の構造図を作成してみたい。

※あらすじ・結末等 ネタバレ状態となっていますので特に未読の方はご注意下さい。


【 まとめ:「ドグラ・マグラ」が読みづらいのは作者の意図によるものだから仕方がない? 】

構造図を作ってはみたものの、果たしてこれが正しい図なのか、作品理解のための一助になりうるのかと問われると何とも自信がない。

あと、図を作成していた際にずっと考えていたことがある。

それは
「そもそもこの作品は、作者が意図して読者を混乱させるような構成にしてるのではないか、だから作品が読みづらいのはもうどうしようもないのではないか?」
ということだ。

本文中で「ドグラ・マグラ」について語られる箇所にも、作者のそういった意図が明確に表れていると言えるだろう。

その構想の不可思議さが又、普通人の所謂、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯観念に捲き込まれそうになるのです。

つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために……

要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。

もともと作者が意図して造った迷宮なので、迷って当然、いや迷ってこそ作品の醍醐味が味わえるのではないか。

ならば読者も開き直って、恐れず迷宮に飛び込み、幻惑に呑み込まれることを楽しめばいいのではないか。

内容を把握できるか、最後まで読み通せるかを気にせず、「ドグラ・マグラ」はそうやって読めばいいのではないかと思う。


記事中のテキストはこちらより引用しました。
青空文庫版「ドグラ・マグラ」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2093.html

川端飢人地蔵 / 夢野久作「押絵の奇蹟」

「押絵の奇蹟」の主人公 トシ子の生家があったとされるのが、水車橋の袂、飢人地蔵の横。

私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川の口の三角洲の上にありました。

その三角洲は東中洲と申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋が架かかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。

その家は只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもお出いでになればすぐにわかります。

押絵の奇蹟

こちらが飢人地蔵の祀られているお堂。

現在お堂の横にあるのは、一方が駐車場、もう一方がワシントンホテルプラザ。
銀行やテニスコートは痕跡すらない。

尤も今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸際と、南の端の川が二つに別れている近くに一並び宛しか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種の花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。

トシ子の手記という体裁で綴られる「押絵の奇蹟」は、その結びに”明治三十五年三月二十九日”と日付の記載がある。
なので、「今から二十年ほど前」は明治十五年頃ということになる。
民家も疎らな場所だった東中洲が明治中期に短期間で繁華街へと変貌したことが伺える。


これはお堂の中にある「飢人地蔵尊由来」の文。
享保の大飢饉で亡くなった人たちを弔うために建立されたことが書かれている。

大飢饉の際、当時の博多の総人口約19500人の1/3にあたる約6000人が亡くなったとのこと。

今からほんの二、三百年前には、飢えが原因でこれほどたくさんの人が死んでいた時代があったということに、ちょっとショックを受ける。

水車橋も今も残っている。
この橋を渡ってちょっと歩けば、櫛田神社の入り口がある。

写真中央の赤い日よけの店が門前の梅ヶ枝餅屋、その前に神社の境内に入る階段が見える。


飢人地蔵尊では今でも毎年8月23日・24日に施餓鬼供養が行われている。
これは当日のお祭りの様子。

お堂の周囲は提灯や赤いのぼりが飾られて、人も大勢集まり賑やかな感じ。

お地蔵様にお参りしたあと私もお接待であめゆを頂いた。
甘くとろりとしていて美味しかった。

24日には灯籠流しも行われる。
周囲のビルのネオンに照らされた川面を、灯籠はゆっくり流れていった。


旧箱崎駅跡 / 夢野久作「空を飛ぶパラソル」

現在のJR箱崎駅(鹿児島本線)は高架化されているが、以前は駅の場所も約440m博多側にずれた位置にあった。以前の駅の位置を示す石碑があるので訪れてみたいと思う。


博多駅からずっと続く鉄道高架。写真右側上部が線路。
吉塚駅から箱崎駅までの高架下にはJRや関連会社の建物が多い。

駐車場の間にその石碑はあった。

注意しなければ気付かずに通り過ぎてしまうような小さい石碑。
駅名の下に描かれているのは筥崎宮の放生会で売られるガラスのチャンポン。

石碑の裏には箱崎駅の歴史が記されている。

九州で初の鉄道が開通したのが明治22年なので、明治23年に開業した箱崎駅は古参の部類に入る。
何度か改築を重ねながら平成14年までここに箱崎駅があった。

石碑のある位置から妙見通り側を見たところ。筥崎宮の本殿後ろの鳥居が見える。
旧箱崎駅は筥崎宮のちょうど真後ろに当たる位置に建てられていたことがわかる。

地図で見るとわかりやすい。


ところでこの鳥居の横に建っている「大社 筥崎宮」と刻まれた石碑、大社の上部分が四角く削られたようになっている。

削られた部分には「官幣大社」の “官幣” という文字があったと思われる。
(なので、もし削られたとしたら終戦後?だろうか。)


久作の作品の中にも箱崎駅が出てくる。
文中では「筥崎駅」と表記されている。

工学部の正門前は、広い道路を隔てて、二三里の南に在る若杉山の麓まで、一面の水田になっていて、はてしもなく漲り輝く濁水の中に、田植笠が数限りなく散らばっている。その田の中の畦道を、眼の前の道路から一町ばかり向うの鉄道線路まで、パラソルを片手に捧げて、危なっかしい足取りで渡って行く一人の盛装の女がいる。
(中略)
そこいらの田に蠢めいていた田植笠が、一つ二つ持ち上って、不思議そうにその女の姿に見惚れはじめた。……と見るうちに、左手の地蔵松原の向うから、多々羅川の鉄橋を渡って、右手の筥崎駅へ、一直線に驀進して来る下り列車の音が、轟々と近づいて来る気はいである。それにつれて女の足取りも、心持ち小刻みに急ぎ始めたように見えた……。

空を飛ぶパラソル

「空を飛ぶパラソル」が書かれたのは昭和4年(1929年)。

地図中1が若杉山。
当時は見渡す限りの水田だったらしいが、現在は市街地になっているので、建物で視界が遮られ若杉山まで見通すことはできない。

地図中2が多々良川(文中では多々羅川)。現在も鹿児島本線の鉄橋が掛かっている。
地図中3は九州大学箱崎キャンパス(位置は九州帝国大学だった当時から変わっていない)、4が当時の箱崎駅。

……と思う間もなく、真正面に横たわる松原の緑の波の中から、真黒な汽鑵車が、狂気のように白い汽笛を吹き立てつつ、全速力で飛び出して来た。機関手が女の姿を発見したに違いないのだ。

それと見た女は洋傘を、線路の傍の草の上に、拡げたままソッと置いた。下駄を脱ぎ揃えて、その上にビーズ入りのバッグを静かに載せた。そうして右手で襟元を繕いながら、左手で前裾をシッカリと掴むと、白足袋を横すじかいに閃めかして、汽鑵車の前に飛び込もうとしたが、線路の横の砂利に躓つまずいて、バッタリと横向きに倒れた。その拍子に右手で軌条を掴んで起き上りかけたが、何故か又グッタリとなって、軌条のすぐ横の枕木の上に突伏した。そのまま白い両手を向うむきに投げ出して、肩を大きく波打たして、深いため息を一つしたように見えた。

私はそれを石のように固くなったまま見とれていたように思う。身動きは愚か、瞬き一つ出来ないままに……と思う間もなく女の全身に、真黒な汽鑵車の投影が、矢のように蔽いかかった。するとその投影の中から、群青と淡紅色のパラソルが、人魂か何ぞのようにフウーウと美しく浮き出して、二三間高さの空中を左手の方へ、フワリフワリと舞い上って行ったが、その方にチラリと眼を奪われた瞬間に、虚空を劈んざく非常汽笛と、大地を震撼する真黒い音響とが、私の一尺横を暴風のように通過した。

上図の四角で囲った部分の拡大。

地蔵松原は、現在の地蔵松原公園付近か?
松原と呼べるほどたくさんの松の木は残っていないが、確かにこの公園のすぐ横を鹿児島本線が通っている。

5が地蔵松原公園、矢印は汽鑵車の進行方向。

轢死事故が起こった現場は赤丸で囲ったあたりと思われる。


ところで「空を飛ぶパラソル」の2部、「濡れた鯉のぼり」の冒頭の舞台も、この地蔵松原付近。
主人公がこの付近を走る列車の車窓から、墓地に建つ雨に濡れそぼった鯉のぼりを見つけるところから物語が始まる。

現在でもこのあたりには墓地がある。


那珂川 / 夢野久作「父 杉山茂丸を語る」

幼い日の久作が父 茂丸の背中に負われて泳いだのが那珂川。

父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂川の洲口を泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。

その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切っていた。
その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花色の疣が在った。

左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本宛ずつ、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、陸に上ってから繰返し繰返し引っぱった。

「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」と父が笑った。

 夢野久作「父 杉山茂丸を語る」

夢野久作略年譜によると

「明治二十六年」(1893)四歳
住吉より博多鰯町に移転

とある。

鰯町は現存しない町名だが、現在の博多区須崎町付近に該当するらしい。

現在の地図で見ても、須崎町は那珂川の河口付近に位置する。
もっとも、埋め立てなどによって現在の海岸線は当時の位置より海側にずれている。河口にあたる箇所もかなり水深が深くなっている。
(2018/08/05)

ユメノマタ夢 書ヲ捨テ街二出ル探訪ノ会 第零回開催レポート

2019年3月16日、ユメノマタ夢 発足会として第零回イベントを開催しました。

記念すべき初めてのイベント、かつ夢野久作氏の命日3月11日に近い開催だったこともあり、久作氏のお墓参りと福岡で最も古い歴史を持つカフェブラジレイロでの昼食会を行いました。

【当日のタイムテーブル】
10:30~10:45 地下鉄呉服町駅 集合
11:00~ 夢野久作の墓に墓参
11:30~ 昼食・会合

一行寺

地下鉄呉服町駅に集合後、歩いて博多区中呉服町にある一行寺へ。
ここに夢野久作の眠る杉山家の墓所がある。

一行寺は文安元年1444年、室町幕府三代将軍足利義満の血を引く照阿上人により開山された浄土宗のお寺。
久作の命日(3/11)には数日遅れたけれどお墓参り。

(現在も杉山家の方々の墓所であり非常にプライベートな場所だと思うので、ここではお墓の写真は掲載しません。ご興味のある方は是非実際に墓参に行ってみてください。)


一行寺前の電柱には、博多リバイバルプランさんによる「はかた博物館」のこんな掲示も。
以下掲示文の内容を引用。

「杉山茂丸翁七十二年の生涯は策士黒幕としての一生であったが、その策は近頃の策士に見るようなこそこそしたものではなく、着眼点の大きい大策士であった」
逝去翌朝の昭和十年七月二十日付福岡日日新聞記事

「玄洋社葬のとき、頭山満が男涙を流し続けていたのが見ていられなかった…」と息子・夢野久作は綴った。

博多では、「目が覚めているのかどうか分からない夢うつつのボーとしている人」を「夢野久作さん」という。

夢野久作(明治二十二年-昭和十一年)は、父・杉山茂丸に「夢野久作さんの書いたごとある」と自作の小説を評されて、ペンネームにしたという。

日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる畢生の奇書「ドグラ・マグラ」をはじめ、怪奇色と幻想性の色濃い作風が夢野久作的。

福岡日日新聞は、現在の西日本新聞社の前身だった会社のひとつ。

(1942年、福岡日日新聞と九州日報社が合併して西日本新聞社となる。なお九州日報は頭山満が創業した福陵新報としてスタートした会社。夢野久作は九州日報の記者をつとめながら執筆活動を行っていた時期もある。)

カフェ・ブラジレイロ

一行寺に墓参した後はランチを食べに博多区店屋町のカフェ・ブラジレイロへ。

このお店は現在福岡で営業する喫茶店の中では一番長い歴史を持つお店。
創業は昭和9年。当時は東中洲の那珂川沿いに2階建ての店があり、夢野久作もブラジレイロをよく訪れていたそう。


人気のメンチカツレツは既に売り切れだったので各々オムライスやハッシュドビーフを注文。オムライスはレギュラーでもこのボリューム。


ランチメニューには小さなカップでコーヒーがついてくる。生クリーム入り。なおハッシュドビーフにはエスプレッソが付く模様。

(お昼の時間帯はかなり混雑するので確実に食べたい方は少し早い時間帯に入店するか予約をおすすめします。)

断片的だけど当日の会合での会話で印象に残ったことをいくつか。
普段の読書について、ミステリー作家について、好きな作家や作品にまつわる聖地巡りの体験談、「ドグラ・マグラ」がどうしても最後まで読み通せない、サピエンス全史について、など。

お会計の時、レジ前に大刀洗平和記念館で開催中の杉山四代(灌園・茂丸・夢野久作・龍丸)の企画展「民ヲ親ニス」のちらしが置いてあるのを発見、一枚頂いてお店を出る。

ここで会は一旦お開きに。

この後一人で少し歩いて初代ブラジレイロのあった場所も見に中洲へ行ってみる。


西大橋のたもとには、原田種夫による「思い出の記」が記された石碑が設置してある。

那珂川沿いの遊歩道には他にも「文士 原田種夫の栞」や大正時代の那珂川周辺の地図や写真を配したモニュメントも。

第零回開催を終えて

ほぼ主催者の思い付きだけで走り出した感のあるこの会、第零回を開催してみて色々と問題点や改善すべき点があることに気付いたので、今回の反省も踏まえてまずはそれらを解決するのが今後の課題です。
参加する方全員に楽しんでもらえるような企画の目処がついたら次回を開催したいと思います。
※このブログ記事はtwitterに投稿した開催レポートを再掲・一部加筆したものです。