川端飢人地蔵 / 夢野久作「押絵の奇蹟」

川端飢人地蔵 / 夢野久作「押絵の奇蹟」

「押絵の奇蹟」の主人公 トシ子の生家があったとされるのが、水車橋の袂、飢人地蔵の横。

私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川の口の三角洲の上にありました。

その三角洲は東中洲と申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋が架かかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋の袂の飢人地蔵様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。

その家は只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもお出いでになればすぐにわかります。

押絵の奇蹟

こちらが飢人地蔵の祀られているお堂。

現在お堂の横にあるのは、一方が駐車場、もう一方がワシントンホテルプラザ。
銀行やテニスコートは痕跡すらない。

尤も今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸際と、南の端の川が二つに別れている近くに一並び宛しか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種の花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。

トシ子の手記という体裁で綴られる「押絵の奇蹟」は、その結びに”明治三十五年三月二十九日”と日付の記載がある。
なので、「今から二十年ほど前」は明治十五年頃ということになる。
民家も疎らな場所だった東中洲が明治中期に短期間で繁華街へと変貌したことが伺える。


これはお堂の中にある「飢人地蔵尊由来」の文。
享保の大飢饉で亡くなった人たちを弔うために建立されたことが書かれている。

大飢饉の際、当時の博多の総人口約19500人の1/3にあたる約6000人が亡くなったとのこと。

今からほんの二、三百年前には、飢えが原因でこれほどたくさんの人が死んでいた時代があったということに、ちょっとショックを受ける。

水車橋も今も残っている。
この橋を渡ってちょっと歩けば、櫛田神社の入り口がある。

写真中央の赤い日よけの店が門前の梅ヶ枝餅屋、その前に神社の境内に入る階段が見える。


飢人地蔵尊では今でも毎年8月23日・24日に施餓鬼供養が行われている。
これは当日のお祭りの様子。

お堂の周囲は提灯や赤いのぼりが飾られて、人も大勢集まり賑やかな感じ。

お地蔵様にお参りしたあと私もお接待であめゆを頂いた。
甘くとろりとしていて美味しかった。

24日には灯籠流しも行われる。
周囲のビルのネオンに照らされた川面を、灯籠はゆっくり流れていった。