シュガーロード紀行 唐津#005 松露饅頭

シュガーロード紀行 唐津#005 松露饅頭

大原老舗 唐津本店


旧唐津銀行の隣にあるのが大原老舗本店。
もとは阿わび屋という屋号で江戸時代後期から続く菓子店。

看板商品は松露饅頭。松露とは松の根元に生える丸いきのこで、その形状に似た饅頭ということで松露饅頭の名がついた。

大原老舗のHPには、文禄・慶長の役の際に大陸より渡って来た”焼饅頭”が元となっているとのこと。焼饅頭は各家庭で伝承され作られていたが、江戸時代後期に阿わび屋惣兵衛が創意工夫を凝らし作製、時の藩主に献上したところ松露饅頭の名を賜った旨が記載されている。

以前から家庭の菓子として存在はしていたものの、商業的な生産はこの阿わび屋による売り出し以降と思われる。当時(江戸時代後期)は砂糖が広く流通するようになり、日本各地の饅頭の餡子が甘くなりはじめた時期でもある。

また、「肥前の菓子」には

古老の話として、門前において祭事の時のみやげ菓子として発達したものといわれている。すなわち、唐津神社の例祭の折に、唐津駅から神社の間、約1キロメートルの間に”松露饅頭”を売る店が数件あったという。

と記載されている。

“古老”が語ったこの話が具体的にいつ頃のことなのかは年代が明記されていないので、これは推測だが、大正~戦前の頃の情景になるのだろうか。


“唐津神社の例祭”、つまり唐津くんちと共に唐津土産としての松露饅頭が定着し、近隣地域にも名物として知られていったことがうかがえる。

“唐津駅から神社の間”という供述にも注目したい。
唐津線は石炭の運搬を目的として明治31年(1898年)から敷設が始まったが石炭産業の隆盛と共に敷設範囲や駅の新設が続き、石炭の運搬だけではなく旅客の利用者数も伸びてゆくことになる。
この唐津線の繁栄も、松露饅頭の知名度を高めた要因として大きく関与していたと言えるだろう。

沿道に”松露饅頭を売る店が数件あった”そうだが、祭りの出店的なその時々で出店していた業者なのか、通常も店舗を構えていた菓子店なのかは不明。

現在、唐津で松露饅頭を売る店は大原老舗の他に「宮田松露饅頭」があるが、それ以外にも松露饅頭を製造・販売する菓子店が存在していたのだろう。

大原老舗
https://oohara.co.jp/

松露饅頭


こちらが大原老舗で購入した松露饅頭。箱には曳山展示場にもあった唐津神祭行列図の一部が印刷されている。


断面を見るとわかりやすいが、中にはこし餡がぎっしり入っている、外側の皮の部分はカステラ生地。

福岡市内にある支店の店頭でも焼いているところを見ることができるが、焼く際に使用する器具や焼いている様子、饅頭の大きさもたこ焼きとよく似ている。熱した焼き機に生地を流し込み、丸めた餡を入れてピック状の道具でひっくり返しながら数十個単位で焼き上げていく。
この昔ながらの製法で、松露饅頭は今でも手焼きで製造されている。


これも「肥前の菓子」からの引用になるが、興味深い記述があったので紹介したい。
松露饅頭の原型が大陸から渡って来た焼饅頭だったことは既に述べたが

昭和初年ごろに大陸に渡った日本人とともに”里帰り”。
韓国の駄菓子「胡桃菓子(ホドクヮジャ)」がそうで、外見や大きさといい、松露饅頭をモデルにしたのは明らかだ。

とのこと。
ネット検索で胡桃菓子の画像を見てみたが、小ぶりな丸型、カステラ生地らしき焼き饅頭でしかも皮が薄く中身がほぼ餡という感じで、確かに松露饅頭によく似ている。
ただし、その名の通り中に餡と共にクルミが入っているのと、饅頭の皮の形状が焼成時に型に入れられるのかクルミのような見た目をしている。

海を渡ってやってきた菓子が、時を経て姿かたちも変化させながら再び海を渡り、その土地でまた新しい菓子となっているのが面白い。