シュガーロード紀行 地図・目次・参考文献(随時更新)

シュガーロードマップ


マップ内 黒線は長崎街道、は来訪地


目次

はじめに: 「肥前の菓子」との出会い

【長崎】 2017/06
#001 長崎街道ここにはじまる
#002 鎮西大社 諏訪神社
#003 月見茶屋
#004 松森天満宮
#005 西山神社
#006 興福寺
#007 カステラ老舗巡り 福砂屋
#008 カステラ老舗巡り 松翁軒
#009 萬順のよりより
#010 長崎市の市章

【大村】 2017/07
#001 大村駅
#002 アーケード街と重なる大村宿
#003 玖島城址
#004 玖島城址の周辺
#005 龍神社
#006 大村寿司
#007 長崎地方の一口香

【諫早】 2017/07
#001 永昌代官所跡
#002 諫早神社
#003 諫早の眼鏡橋
#004 菓秀苑森長
#005 建替途中の諫早駅
#006 諫早と大村の黒おこし

【平戸】 2017/09
#001 日本の西の端
#002 松浦史料博物館
#003 閑雲亭と烏羽玉
#004 平戸オランダ商館
#005 蔦屋のカスドース
#006 熊屋の牛蒡餅
#007 平戸松浦氏・平戸と砂糖・鎮信流・百菓之図
#008 東西百菓之図

【嬉野】 2017/11
#001 俵坂関所跡を見に行く
#002 瑞光寺
#003 豊玉姫神社
#004 あめがたやのあめがた

【塩田】 2017/11
#001 八天神社
#002 塩田川の荷揚場跡
#003 塩田の長崎街道
#004 塩田の恵比須像
#005 塩田の仁王像
#006 杉光陶器店
#007 佐賀地方の逸口香

【小城】 2018/02
#001 小城駅と唐津線
#002 羊羹のまちと梧竹さん
#003 村岡総本舗本店と羊羹資料館
#004 須賀神社
#005 深川家揚羽の蝶
#006 小城公園の桜
#007 小城羊羹とその歴史

【牛津】 2018/02
#001 牛津駅
#002 九州の百貨店王と牛津町会館・牛津赤レンガ館

【佐賀】 2018/04
#001 銘菓めぐりの旅
#002 佐嘉神社
#003 焼きたて丸ぼうろを試食
#004 伊勢神社
#005 六座町
#006 築地反射炉跡
#007 佐賀藩の御菓子司 鶴屋
#008 鶴屋の丸房露 北島の丸芳露
#009 鶴屋の肥前ケシアド
#010 森永太一郎と江崎利一

【唐津】 2018/07
#001 菜畑遺跡
#002 唐津曳山と唐津神社
#003 唐津城
#004 旧唐津銀行
#005 松露饅頭

【浜崎】 2018/07
#001 浜崎のけえらん

【博多】 2018/08
#001 鴻臚館と大宰府官道
#002 承天寺の御饅頭所之碑
#003 豊臣秀吉と神屋宗湛・太閤町割・利休釜掛之松
#004 筥崎宮に残る千利休の石灯篭
#005 福岡藩の御菓子司と鶏卵素麺

【太宰府】 2018/08
#001 お菓子の神様の神社
#002 お石茶屋
#003 太宰府の梅ヶ枝餅

【飯塚】 2018/11
#001 ひよ子の工場見学に行く
#002 旧 伊藤伝右衛門邸
#003 飯塚市街に残る長崎街道の面影
#004 飯塚の名のおこり 曩祖八幡宮・飯の山
#005 千鳥屋本家の千鳥饅頭・千鳥サブレ
#006 さかえ屋のすくのかめ

【小倉】 2019/03
#001 小倉城と常盤橋
#002 常盤橋周辺の旧街道
#003 小倉駅前に残る門司往還の痕跡
#004 軍都小倉と栗饅頭
#005 森鴎外の小倉日記
#006 八幡製鐵所と鐵平糖
#007 大里・門司・門司港

【熊本】 2019/06
#001 細川忠興と加勢以多
#002 加藤清正と朝鮮飴(長生飴)
#003 SWISSのリキュールマロン


参考文献

● 肥前の菓子―シュガーロード長崎街道を行く
村岡安廣 著/佐賀新聞社

● 九州文化図録選書1 長崎街道 大里・小倉と筑前六宿
図書出版のぶ工房

● 九州文化図録選書2 長崎街道 肥前佐賀路
図書出版のぶ工房

● 九州文化図録選書3 長崎街道 肥前長崎路と多良海道
図書出版のぶ工房

● 九州文化図録選書4 平戸街道 江迎筋と御厨筋
図書出版のぶ工房

● 九州文化図録選書5 唐津街道 豊前筑前福岡路
図書出版のぶ工房

● 九州文化図録選書6 唐津街道 肥前佐賀長崎路から時津街道へ
図書出版のぶ工房

● 江戸時代の平戸の菓子
江後廸子・つたや総本家

● 村岡総本舗 羊羹資料館案内
村岡総本舗

● 和菓子 第九号 特集-九州
株式会社虎屋 虎屋文庫

● 海路 第三号 特集-九州と菓子
海鳥舎

● 砂糖の通った道 菓子から見た社会史
八百啓介/弦書房

● 筑紫菓匠五十二萬石如水庵 創業四二〇年の軌跡
荻野忠行 著・森恍次郎 監修/梓書院

● 佐賀の街道見聞録
川上茂治/横蔵亭

シュガーロード紀行 熊本#003 SWISSのリキュールマロン

伝統的な和菓子とは別に、熊本に来た際に是非食べてみたいと思っていたお菓子がある。
熊本の老舗洋菓子店 スイスの「リキュールマロン」。熊本市民なら知らない人はいない程有名なお菓子とのこと。

お店のサイトの商品紹介ページ にはこう書かれている。

創業当時から製法を変えていない、言わずと知れたミドリの銀紙にくるんだバターケーキ。
生地に浸み込んだたっぷりのリキュールシロップ、県産の渋皮マロンが入ったバタークリームをサンドしてあります。きっと昭和のあの頃を思い出させてくれる一品です。

「昭和のあの頃を思い出させてくれる」というのが、どんな味か気になるところ。

スイスには喫茶スペース併設の店舗もあり、そこでリキュールマロンも提供されているそうなのでお店で食べることにする。


やってきたのは市街中心部の大きなアーケード街、上通りにあるお店。


お店の奥には広めのテラス席もある。天気もいい日だったので外でいただくことにした。
注文して待つこと数分、リキュールマロンが運ばれて来た。


緑色の包装紙を開けると嵩のある丸いケーキが姿を現す。

スポンジ部分には極限までリキュールシロップがしみこませてあり、その間には栗入りのバタークリームがたっぷりと挟まっている。よく冷やしてあることもあって何だかケーキとアイスの中間のような食感だった。

お酒に弱い人は酔ってしまうかもしれない…。加えてクリームの濃厚さもあって一度食べると忘れられない味。

昔から食べている熊本の人にとっては、ずっと変わらないこの味が懐かしさをも呼び起こすのかもしれない。
お店の創業時(1962年)から同じ製法で作り続けているのも何だか分かる気がする。

SWISS  熊本で最初の洋菓子(ケーキ)店 お菓子のことならスイス

(来訪日:2019/06/23)

シュガーロード紀行 熊本#002 加藤清正と朝鮮飴(長生飴)

加勢以多と並んで熊本に古くからあるお菓子として挙げておきたいのが朝鮮飴。

朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、江戸時代から受け継がれる熊本県の伝統銘菓である。
求肥飴の一種とされる。餅米と水飴と砂糖を独自の製法でこね合わせて長方形に型切りし片栗粉をまぶしている。上品な甘さともちもちした食感を持つ滋養豊かで日持ちする和菓子である。

安土桃山時代、老舗園田屋の開祖である園田武衛門により造られていた当初は、長生飴または肥後飴と呼ばれていた。
文禄・慶長の役が起きると、肥後国の城主であった加藤清正がこの飴を兵糧目録に入れて朝鮮半島へ出兵し、長期の携行でも風味が損なわれず兵士達の英気を養うのに大いに役立った事から、以後は朝鮮飴と呼ばれるようになったという。

(中略)

江戸時代中期までは肥後藩が買い上げる御用物とされ、製法も管理されて一般への流通は許されていなかった。代々の肥後藩主は朝鮮飴を江戸幕府と朝廷への献上品、または諸大名への贈答品としても用いていた。

Wikipedia 朝鮮飴

加勢以多は細川忠興ゆかりのお菓子だったが、こちらは加藤清正ゆかりのお菓子と言える。

朝鮮飴はWikipediaの解説にも名前が出てくる園田屋さんが一番の老舗とのこと、現在のご店主で19代目になるそう。2018年には115年ぶりの新商品「れもん飴」を発売したことで話題になっていた。


ということで園田屋さんに朝鮮飴を買いに行ってみる。


が、閉まっていた…。

どうやら訪れた日は定休日だった模様。建物だけ写真に納めたが、周囲にビルが建ち並ぶ街中で古めかしい日本家屋の店舗がひときわ目を惹いた。



商品は帰り際に立ち寄った熊本駅のお土産売り場で売られているのを見つけて無事に入手できた。
箱には加藤家の家紋である蛇の目紋・桔梗紋と熊本城の絵が描かれいる。


写真では真っ白に写ってしまってるのでわかりづらいが、箱を開けるとかたくり粉に覆われた朝鮮飴がみっちり詰まっている。


粉を払い落とすとこんな感じ。やや黄色味を帯びた求肥のお餅が一口大の大きさに切り分けられている。食べてみると柔らかで大変美味しい。口に広がるやさしい甘みは確かに飴を思わせる。

ボンタンアメにも似た食感だと思ったが、実はボンタンアメは朝鮮飴から着想を得て作られた経緯があるらしい。

(来訪日:2019/06/23)


シュガーロード紀行 熊本#001 細川忠興と加勢以多

謎のお菓子 ”カセイタ”

”カセイタ”というお菓子の存在をはじめて知ったのは、今から7~8年前、オノ・ナツメさんの「つらつらわらじ」を読んでいた時のことだった。

(「つらつらわらじ」は、江戸時代 備中岡山藩のお殿様が岡山から江戸まで参勤交代を行う道中を描いた漫画で、”カセイタ” は大阪の豪商がお殿様に献上するお菓子として登場する 。)

作中にはこのような絵が一コマあるだけ。
見た目は何だか平べったいサンドウィッチのようにも見える。

熊本のお菓子であること、漢字で表記すると”加勢以多”になることは知ることができたが、それ以上の詳しい記述はない。何で出来ているのか、どんな味なのかもわからなかったけど、風変わりな響きもあって、このお菓子の名前は妙に記憶に残るものだった。

それから数年後、「肥前の菓子」を読んだ際に、この”カセイタ”に再び出会うことになる。

本を読んで知ったが、実は”カセイタ”もシュガーロードと非常に深い関係のあるお菓子だった。
これは是非現地に出向いて入手したいと思い、熊本に出かけることにする。

熊本へ

というわけで、初夏の某日 熊本へやって来た。
博多からは九州新幹線で約50分ほどで到着する。

これは熊本市役所の展望ロビーから見る修復工事中の熊本城。

2,019年6月現在、熊本城はいまだ広範囲にわたり立ち入りができない状況が続いている。
崩れた石垣の石ひとつひとつを全て元通りに組み直すなど、気の遠くなるような修復作業が行われている最中だが、こうやって少しづつでもお城がもとの姿に戻っていく様子は見ていて嬉しくなる。

”カセイタ”=加勢以多

“カセイタ”は、この熊本城を居城とした大名 細川家と深い関連がある。

「肥前の菓子」には、”カセイタ”についてこう書かれている。

“加勢以多”は、文化の十字路肥前からもたらされたものでこの起源はポルトガルにあり、江戸期は全国に存在していた。
マルメロという果実の果肉を練り固めたもので、その異国情緒あふれる味わいを肥後熊本の細川三斉公が好み熊本に持ち帰ったものである。
加勢以多は、かせ板とも書き語源はポルトガル語の「カイシャダ・マルメラーダ」、すなわち「マルメラーダの箱」が日本語に置き換えられたと伝えられている。

不思議な響きをもつ名前はポルトガル語が変化したものだったと知り、なるほどと思った。

細川三斉=忠興といえば、熊本の前に訪れた小倉とも関連がある。

忠興は関ヶ原の戦いの後 豊前国を拝領、それまでは小さな城だった小倉城を約七年かけて大きな城に改築し居城とした。
その後家督を子の忠利に譲って隠居、名前を三斉と改める。
忠利の代に細川家は豊前小倉から肥後熊本に移封、石高も四十万石から五十四万石に加増された。

忠興は戦国の乱世を生き抜いた武将でもあり、和歌や学問に秀でた当代きっての文化人でもあった。特に茶道については、千利休の高弟の一人にも数えられるほど造詣が深い人物だった。

加勢以多は忠興が茶菓子として重用したことで熊本に根付き、のちに幕府への献上品や諸大名への贈答品としても用いられた。
原料となるマルメロは日本になかったため、カリンや梨で代用して作られていたらしい。

写真はWikipediaより。左がマルメロ、右がカリン。

分類上は全く別の属種だが、こうやって並べて見ると外見はよく似ているかもしれない…。

加勢以多は長らく熊本の山城屋という菓子店が生産していたそうだが、山城屋は昭和60年代に廃業、製造も一時途絶えた時期があった。その後平成に入りお菓子の香梅さんが製造を継承、加勢以多は復活し現在に至っているとのこと。

こちらがお菓子の香梅さんの白山本店。
「誉の陣太鼓」や「武者がえし」でも知られる熊本の菓子店。ここで加勢以多を購入する。

本店の中には喫茶スペースも併設されている。これはひと休みがてら店内で食べた陣太鼓ソフト。
陣太鼓に使用されている大納言あずきと求肥が入ってる。限られた店舗で提供されている商品らしい。


入手した加勢以多を実食してみたい。

まるで長持を思わせるような濃紺の箱に入っていて、掛け紙には「古今伝授の間香梅」とある。
水前寺公園にある古今伝授の間と隣接する茶屋でも、この菓子がお茶とともに提供されているらしい。
(詳しくはこちら→ 古今伝授の間 – お菓子の香梅

箱を開けると中には紙にくるまれた小さくて薄いお菓子が詰まっていた。
表面の白い部分はもち米で作ったおぼろ種、細川家の家紋である九曜紋の焼印が押され、なかには砂糖で煮て餡状にしたカリンが挟んである。

食べてみると、果実の爽やかな酸味が広がる。
カリンという普段あまり食べたことのない果物でもあるせいか、和菓子としては新鮮な味わいに感じた。

(来訪日:2019/06/23)


赤煉瓦夜話 福博のカフェ談義 at カフェ ブラジレイロ

福岡市文学館が主催する文学講座「赤煉瓦夜話」、普段は福岡市文学館(=赤煉瓦文化館)で開催されているそうだが、今回は「福博のカフェ談義」というテーマで、福岡で一番古い歴史を持つ喫茶店 カフェ ブラジレイロを会場に店主の中村好忠さんのお話を伺うという内容だった。

お店の歴史や常連客だった福岡の作家にまつわるエピソード、さらに戦前・戦後から現在に至るまでの福岡の喫茶店事情やその裏話まで、さまざまなお話を聴くことが出来た。


カフェ ブラジレイロは、昭和9年 ブラジル サンパウロのコーヒー局が日本でのブラジル産コーヒーの宣伝のために開いた珈琲店が始まりだったそう。最初に店舗が建てられたのは東中洲の那珂川沿い、中洲大橋のたもとにあたる場所だった。(現在ファミリーマートの店舗があるあたり) 2階建ての白い建物やモダンな内装も大変目を惹くものだったらしい。

当時のコーヒーは1杯10銭。決して安い金額ではなかったが、

文学青年のたまり場で、一杯のコーヒーで何時間も文学議論を交わして平気でした。
(原田種夫氏の回想)
五足の靴から「九州文学」まで「福岡と文学」

といった感じで、お店には地元の文学者や大学教授などが多く集うようになり、いつしか文化サロンのような役割を果たすようになる。夢野久作もブラジレイロによく訪れていた。

店内には喫茶スペースとは別に会員制のバーもあった。また自家焙煎を行っていたので豆の焙煎室も2階にあったそう。

なお、ブラジレイロは「カフェ」であり、所謂「カフェー」ではなかったとのこと。
(これは参加者の方から挙がった質問にご店主が答えられていた内容。戦前によくあった お酒を提供し女給さんがお酌をする店=「カフェ―」のような店ではなく、ブラジレイロはあくまでコーヒーと洋食を楽しむ店だった。そのためお酒が飲みたいお客についてはバーでのみ提供するように場所も分けたそう。)

やがて大東亜戦争が開戦、次第にコーヒー豆も日本に入ってこなくなりお店の経営もままならなくなる。お店のオーナーだった中村さんの御一家も疎開で福岡を離れた。そして昭和19年には店舗も撤去されてしまう。白い外観の建物は空襲の標的にされやすいという理由もあった為とのこと。

そして終戦。
戦後は奥の堂でお店を再開。神戸方面から何とかコーヒーの生豆を送ってもらい、炭火の上で豆を焙煎した。再開したお店にはお客さんが表通りまで列を作るほど押し寄せたそう。

戦後間もない頃には、大変苦みの強いコーヒーが流行ったらしい。
(これは戦中戦後の物資不足で、人々がコーヒーの味自体に渇望していたことが関係しているんじゃないかと思う。)また、この傾向は特に大阪や北九州で強かったそう。

昭和26年に現在の店屋町へ移転。
店屋町はもとは問屋街だったので、問屋で働く人たちが主なお客だった。

その後訪れた喫茶店ブーム、福岡市内にもたくさんの喫茶店が開店する。
しかし1981年をピークに喫茶店数は減少に転じ、街中にあった喫茶店も次第に減っていく。


そして近年、大手コーヒーチェーンが席巻する一方で、昔から続く個人経営の喫茶店はさまざまな理由で廃業・閉店する店舗も少なくない。

(これはこぼれ話だが、天神某所に店舗を構えるある喫茶店は、賃料だけで月100万にもなるそう。高額な賃料の他にも諸経費がかかる。ではコーヒー1杯約¥500~として一日どれくらい売上をたてればお店をやっていけるのか。市街中心部のファッションビルや商業施設に入っているカフェの殆どがスターバックスやドトール等であるのは、そういった大手資本でないと無理、という事情もあるらしい)

しかし暗いニュースばかりではなく、福岡の喫茶業界では新しい動きも出てきている。

● 現在福岡には、世界規模の焙煎技術コンテストで1位を獲得した人や、味覚・テイスターのコンテストで3位以内に入賞するような人もいて、地域全体で見ても質の高いコーヒーが楽しめる様になっていること。

● 人々のコーヒーに対する関心や、よりおいしいコーヒーを楽しみたいという欲求も一層高まっていて、市内で開催されるコーヒーのイベントにはたくさんの人が来場していること。

● 天神中心部に比べれば賃料も安く小さな店が出店しやすい六本松周辺や大名あたりでは、こだわりのある個人経営のカフェも出てきて奮闘していること。

● 最近ではタイなど東南アジアのコーヒー産地ともつながりが出来てきたこと。アジアにひらけた窓口としての福岡の地の利を生かして、近隣国との喫茶文化の交流も活発化していること。

など。


これも参加者からあがった質問だが、私も以前から気になっていたことがあった。
それは「ブラジレイロのメンチカツは、なぜあんな特徴的な形なのか」というもの。
(どういう形かご存じない方は こちらをご覧ください)

それに対するご店主の答えは
「メンチカツは戦前から提供していたが、もとはああいう形ではなく普通のかたちだった。戦後、復員してきた料理人が、或る時何となくあの形で作るようになり、以来いつの間にか定着してしまった。」とのこと。

え、”何となく”だったの? ということで、ちょっと拍子抜けすると同時に会場内にも笑いがおこっていた。


カフェブラジレイロでの談義はこういった様々なお話が伺え、約1時間があっという間に過ぎてしまった。


これはお店の入り口ドア。
ブラジルからコーヒーがずんずんずんずんと迫ってきているようなロゴマークが何だかかわいい。

昔ブラジレイロがあった那珂川沿いの場所には、原田種夫氏の文学碑が建てられているそう。この文学碑も改めて見に行ってみたい。

(来訪日:2018/11/15)



水鏡天満宮/夢野久作「少女地獄」- 火星の女

 

昭和通り、西中島橋そばの交差点角に立つ福岡市文学館(旧日本生命保険株式会社九州支店)。
そのすぐ隣が水鏡天満宮。(写真右側に天満宮の鳥居が写っている。)

こちらはお社の裏側の参道入り口になる。

鳥居の扁額の「天満宮」は黒田家13代目 黒田長成氏の揮毫。

表側の参道は明治通りに面している。道を挟んで真向かいにアクロス福岡がある。

こちらの鳥居の扁額は、福岡出身の政治家で内閣総理大臣も務めた広田弘毅が、小学生(!)の頃に揮毫したものだそう。

以下は参道入り口に立っている案内板の文章。

菅原道真を祀る神社です。
社殿によれば、延喜元年(901年)京都から大宰府に赴任途中の菅原道真が、四十川の清流を水鏡にして自らの姿を映した場所に、後に社殿を建て、水鏡天神または容見(すがたみ)天神と呼びました。
慶長17年(1612年)には、福岡藩初代藩主黒田長政がこの地に移し、二代藩主忠之が社殿を再建したとされます。
福岡の繁華街「天神」の地名は、この神社にちなんだものと言われています。

長政公がこの場所にお社を移したのは、福岡城から見て丑寅にあたる方角の鬼門封じのためだったと伝わっている。
移される前は、現在の中央区今泉あたりにお社があった。

天満宮なのでお社の前に牛さんがいる。

そして狛犬。比較的新しい。
ここの吽の狛犬には頭のてっぺんに角が生えている。

お社の朱色と周囲の木々の緑色のコントラストも美しい。


「少女地獄」の第三話「火星の女」の中には、この水鏡天満宮と思しき場所が登場する。

そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。
却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。
校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗の町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……

 火星の女

文中には「天神の森」という言葉が出てくるが、現在の水鏡天満宮周辺は市街中心部でビルや大通りに囲まれていることもあり、森というほどの木はもう残っていない。


ところでこの「火星の女」は、実際に起こった事件を基にして書かれた部分もあるそう。

( 黒焦げ死体事件: 昭和8年、現在の糟屋郡須恵町の火葬場で12~13歳の少女と思われる半黒焦げの遺体が発見される。9日目に少女の養父による犯行と判明。)

また、物語の主人公「火星さん」は、日本人女性初のオリンピックメダリストとして活躍しつつも、昭和6年に24歳の若さで病没した 人見絹枝 がモデルだったらしい。