赤煉瓦夜話 福博のカフェ談義 at カフェ ブラジレイロ

赤煉瓦夜話 福博のカフェ談義 at カフェ ブラジレイロ

福岡市文学館が主催する文学講座「赤煉瓦夜話」、普段は福岡市文学館(=赤煉瓦文化館)で開催されているそうだが、今回は「福博のカフェ談義」というテーマで、福岡で一番古い歴史を持つ喫茶店 カフェ ブラジレイロを会場に店主の中村好忠さんのお話を伺うという内容だった。

お店の歴史や常連客だった福岡の作家にまつわるエピソード、さらに戦前・戦後から現在に至るまでの福岡の喫茶店事情やその裏話まで、さまざまなお話を聴くことが出来た。


カフェ ブラジレイロは、昭和9年 ブラジル サンパウロのコーヒー局が日本でのブラジル産コーヒーの宣伝のために開いた珈琲店が始まりだったそう。最初に店舗が建てられたのは東中洲の那珂川沿い、中洲大橋のたもとにあたる場所だった。(現在ファミリーマートの店舗があるあたり) 2階建ての白い建物やモダンな内装も大変目を惹くものだったらしい。

当時のコーヒーは1杯10銭。決して安い金額ではなかったが、

文学青年のたまり場で、一杯のコーヒーで何時間も文学議論を交わして平気でした。
(原田種夫氏の回想)
五足の靴から「九州文学」まで「福岡と文学」

といった感じで、お店には地元の文学者や大学教授などが多く集うようになり、いつしか文化サロンのような役割を果たすようになる。夢野久作もブラジレイロによく訪れていた。

店内には喫茶スペースとは別に会員制のバーもあった。また自家焙煎を行っていたので豆の焙煎室も2階にあったそう。

なお、ブラジレイロは「カフェ」であり、所謂「カフェー」ではなかったとのこと。
(これは参加者の方から挙がった質問にご店主が答えられていた内容。戦前によくあった お酒を提供し女給さんがお酌をする店=「カフェ―」のような店ではなく、ブラジレイロはあくまでコーヒーと洋食を楽しむ店だった。そのためお酒が飲みたいお客についてはバーでのみ提供するように場所も分けたそう。)

やがて大東亜戦争が開戦、次第にコーヒー豆も日本に入ってこなくなりお店の経営もままならなくなる。お店のオーナーだった中村さんの御一家も疎開で福岡を離れた。そして昭和19年には店舗も撤去されてしまう。白い外観の建物は空襲の標的にされやすいという理由もあった為とのこと。

そして終戦。
戦後は奥の堂でお店を再開。神戸方面から何とかコーヒーの生豆を送ってもらい、炭火の上で豆を焙煎した。再開したお店にはお客さんが表通りまで列を作るほど押し寄せたそう。

戦後間もない頃には、大変苦みの強いコーヒーが流行ったらしい。
(これは戦中戦後の物資不足で、人々がコーヒーの味自体に渇望していたことが関係しているんじゃないかと思う。)また、この傾向は特に大阪や北九州で強かったそう。

昭和26年に現在の店屋町へ移転。
店屋町はもとは問屋街だったので、問屋で働く人たちが主なお客だった。

その後訪れた喫茶店ブーム、福岡市内にもたくさんの喫茶店が開店する。
しかし1981年をピークに喫茶店数は減少に転じ、街中にあった喫茶店も次第に減っていく。


そして近年、大手コーヒーチェーンが席巻する一方で、昔から続く個人経営の喫茶店はさまざまな理由で廃業・閉店する店舗も少なくない。

(これはこぼれ話だが、天神某所に店舗を構えるある喫茶店は、賃料だけで月100万にもなるそう。高額な賃料の他にも諸経費がかかる。ではコーヒー1杯約¥500~として一日どれくらい売上をたてればお店をやっていけるのか。市街中心部のファッションビルや商業施設に入っているカフェの殆どがスターバックスやドトール等であるのは、そういった大手資本でないと無理、という事情もあるらしい)

しかし暗いニュースばかりではなく、福岡の喫茶業界では新しい動きも出てきている。

● 現在福岡には、世界規模の焙煎技術コンテストで1位を獲得した人や、味覚・テイスターのコンテストで3位以内に入賞するような人もいて、地域全体で見ても質の高いコーヒーが楽しめる様になっていること。

● 人々のコーヒーに対する関心や、よりおいしいコーヒーを楽しみたいという欲求も一層高まっていて、市内で開催されるコーヒーのイベントにはたくさんの人が来場していること。

● 天神中心部に比べれば賃料も安く小さな店が出店しやすい六本松周辺や大名あたりでは、こだわりのある個人経営のカフェも出てきて奮闘していること。

● 最近ではタイなど東南アジアのコーヒー産地ともつながりが出来てきたこと。アジアにひらけた窓口としての福岡の地の利を生かして、近隣国との喫茶文化の交流も活発化していること。

など。


これも参加者からあがった質問だが、私も以前から気になっていたことがあった。
それは「ブラジレイロのメンチカツは、なぜあんな特徴的な形なのか」というもの。
(どういう形かご存じない方は こちらをご覧ください)

それに対するご店主の答えは
「メンチカツは戦前から提供していたが、もとはああいう形ではなく普通のかたちだった。戦後、復員してきた料理人が、或る時何となくあの形で作るようになり、以来いつの間にか定着してしまった。」とのこと。

え、”何となく”だったの? ということで、ちょっと拍子抜けすると同時に会場内にも笑いがおこっていた。


カフェブラジレイロでの談義はこういった様々なお話が伺え、約1時間があっという間に過ぎてしまった。


これはお店の入り口ドア。
ブラジルからコーヒーがずんずんずんずんと迫ってきているようなロゴマークが何だかかわいい。

昔ブラジレイロがあった那珂川沿いの場所には、原田種夫氏の文学碑が建てられているそう。この文学碑も改めて見に行ってみたい。

(来訪日:2018/11/15)