出来町公園:旧博多駅跡地 / 杉山龍丸「わが父・夢野久作」

出来町公園:旧博多駅跡地 / 杉山龍丸「わが父・夢野久作」

博多に最初の鉄道の駅が出来たのは明治22年。
九州ではじめての鉄道が敷設されるのにあわせて建造された。

その博多駅があった場所が現在の出来町公園。大博通りから少し入った場所にある。

周囲はビルに囲まれている。特に狭くもないが広くもない緑地。

公園内には「九州鉄道発祥の地」のモニュメントが設置されている。
モニュメント裏側に刻まれた碑文。

福岡県をはじめ、佐賀、長崎、熊本県民有志のあいだに鉄道建設への機運が盛りあがり、明治二十一年六月、九州鉄道株式会社が設立されました。初代社長高橋新吉は、ドイツ人技師ヘルマン・ムルシュツテルを技術顧問として招へいし、彼の指導によりまず博多・久留米間の工事を進めました。
本州の鉄道がイギリス人、北海道がアメリカ人の技術指導によったのに対し、九州の鉄道はドイツ式を採用することになりました。

この公園の一角に設けられた博多駅から最初の鉄道が敷設され、明治二十一年十二月十一日、陸蒸気は多くの人びとの喜びと期待を乗せて走り始め、筑紫路に鉄輪のひびきがこだましました。
いらい九州鉄道は、自らその路線を伸ばすとともに、すでに開業していた筑紫鉄道、豊州鉄道、唐津興行鉄道、伊万里鉄道をつぎつぎに吸収、北部九州の交通網をほとんど手中に収め、民営鉄道のなかでは全国第二位の地位を占めるまでに発展しました。

その後、明治四十年七月、鉄道国有法によって国に買収されることになり、国有鉄道として九州の産業・文化の発展に貢献してまいりました。博多駅もまた、この鉄道の発展につれて二代・三代と所を変えて成長。今日では九州最大の駅としてその威容を誇っております。このたび、九州の鉄道開業九十周年を迎えるにあたり、ここに先人の偉業をしのび、合せて鉄道発祥の地を永久に保存するため、この地に碑を建立しました。

昭和五十四年十一月
日本国有鉄道九州総局


文中に名前が出てくるドイツ人技師ヘルマン・ムルシュツテルは、”九州鉄道建設の恩人”として今でも博多駅屋上の広場にレリーフが飾られている。

公園内に立っていた立て札。
ここが公園として整備されたのは昭和40年らしい。


これは久作の息子の龍丸氏が記した回想だが、幼い日の久作の思い出の中にも博多駅の姿があった。

博多駅は、博多で、一番大きな煉瓦の建物で、中央に大きな時計塔があって、そこにあがる、花火が美しかった。花火があがる度に、その女の人の丸髷のつややかな髪に、光が、赤や白や、青い色が映えて、美しかった。
そして帰るとき、その時計塔の上から、大きな、大きなお月様があがって来た。
それは、それは、大きな、大きな、丸い、丸いお月様であった。

(杉山龍丸「わが父・夢野久作」)

久作が生まれたのは明治22年の1月、博多駅の開業(=九州鉄道の開通)がその年の11月なので、思い出で語られているのがこの開業の日であるとすれば、久作は0歳児の時に観た情景を覚えていたことになる。


出来町の博多駅についてもう少し調べてみたい。

西日本シティ銀行のサイト内にあるふるさと歴史シリーズのページによれば、開業の日は土砂降りで、予定されていた祝賀行事もすべて取りやめになってしまったとのこと。
ふるさとの駅、博多の玄関 博多駅物語

当然花火もあがるはずはないので、久作が見たのは、この初代博多駅の開業の祝賀行事の花火ではなかった可能性が高い。

またWikipediaの記載によれば、翌明治23年には別の場所に早くも2代目の駅舎が作られている。
この2代目駅舎は現在の祇園駅付近にあったらしい。
Wikipedia 博多駅

2代目駅舎の開業日、もしくは花火が打ち上げられるような祝賀行事があった日やその日の天気については詳しい記録を調べきれなかったので断言はできないが、久作がおんぶされて観た博多駅とは、この2代目駅舎だったのではないかと思われる。

(2018/08/05)


【再考と追記】

上記記事を書いた後、久作自身の回想録の中に以下のような記述があることに気づいた。

筆者は幼少から病弱で、記憶力が強かったらしい。満二歳の時に見た博多駅の開通式の光景を故老に話し、その夜が満月であったと断言して、人を驚かした事がある位だから……。

夢野久作「父杉山茂丸を語る」

これにより、久作が幼い日に見たのは、やはり2代目駅舎の開通式だったことが確定できた。

(2019/08/19)